この一冊のうち、私に強い印象を残したのは、以下の論考だ。
川村湊氏「太宰治とその弟子」
青木純一氏「反律法者による演技の倫理」
松本和也氏「『走れメロス』の読み直し」
昇芳史氏「小山清と太宰治」
川村氏の論考。太宰が自らをイエス・キリストに擬していた、という説は
以前からあったと思う。自らをイエスに擬するからには、弟子がいたって当
然なのだろう。川村氏はこう書いている。
小山清の文章を読んでいると、イエス・キリストとしての太宰治、ユダとし
ての田中英光、ペテロとしての小山清といった構図が浮かんでくる。
青木氏の論考。「トカトントン」に登場する金槌の音には、キリストの磔
刑という含意があるのではないか、という指摘に〈霹靂〉を感じた。
松本氏の論考。メロスは、王に利用された。暴君の支配をより、強力なもの
とするために。松本氏はこう書いている。
「走れメロス」というタイトルは、メロスが自身に奮起を呼びかける声、ある
いは読者がメロスに送るエールなどではなく、暴君デイオニスの思惑こそが託
されていたのかもしれない。
昇氏の論考。昇氏が、自らと小山清氏とを重ね合わせながら、文章をつづっ
ている、という事実が、論考に奥行きを与えている。太宰がこんなにも弟子の
身の上を慮っていたのか、と驚いた。七度の七十倍赦せ、とはイエスの言葉だ
が、太宰はこれを、実生活上で実践していたのだ、と知った。やはり太宰は、
イミタティオ(偽)のイエス・キリストなのだな、と確認できた。
附記。「風の便り」は、太宰文学の、読みの可能性を示唆する作品だ。
〈含羞〉の人、とも呼ばれる太宰。彼特有の〈含羞〉は、言論統制・検閲と
の闘いと、相性が良かったのではないか、と私は推察している。
思惟と言葉との間に、小さい歯車が、三つも四つもあるのです。けれども、こ
の歯車は微妙で正確な事も信じていて下さい。私たちの言葉は、ちょっと聞く
とすべて出鱈目の放言のように聞えるでしょうが、しさいにお調べになったら
、いつでもちゃんと歯車が連結されている筈です。(「風の便り」)
斎藤理生氏は、こう書いている。
木戸一郎は、井原の世代の作家たちのように、「思惟とその表示」を直結させ
られないという。(中略)「思惟と言葉との間」で「戸惑ひ」ながら、その迷
い自体はしっかり表現できているこの作家の語りには、相応のいかがわしさを
踏まえたうえで接しなければならないはずなのである。(「スクランブル読書
」)
「正義と微笑」は、知人の日記にあったマルクス主義を、キリスト主義へと
変換し、創作した作品である、という。マルクス主義とキリスト主義との間に、
歯車が一つあった、と仮定する。とすれば、彼のキリスト教への傾倒は、実は、
マルクス主義への傾倒の〈仮装〉だった、ということになる。太宰がキリスト
主義を文学作品上に並べれば並べるほど、彼のマルクス主義への傾倒は、深ま
っていた、ということだろうか。いや、あるいは、歯車は二つ、裏の裏は表、
彼のキリスト主義への傾倒は、素直な表現であった、という可能性も、……い
や、待て、文字通り信じるなら歯車は「三つも四つもあるの」だという。
どうやら、私では、歯が立たないようだ。