「こんな障害を抱えていたにもかかわらず、こんな素晴らしい仕事を成し遂げた」とか、「こんな障害があったからこそ、こんな素晴らしい業績を挙げた」という風に読める本ではある。タイトルもそういう読み方に読者を誘導している。が、私としてはそう読みたくない。
この本の第1の手柄と思えるのは、いわゆる「偉人」たちの業績や生活ぶりについての病跡学的分析を通じ、近年ますます注目を集める多様なタイプの脳機能「障害」について、鮮やかなイメージを提出している点。多くの人に親しみある極端な事例を取り上げることで、「障害」の具体的様相を拡大鏡にかけて見せてくれる。ただし、どこまで厳密さを保証されている分析なのか、疑問に思った部分も少なからずあった。
もう1つの手柄は、教育の選別機能についても、一歩踏み込んだ分析が提示されている点。教育が選別だなんていう話は、それこそ耳にタコが出来るくらい聞いてきたが、脳機能の選別という水準にまで議論を進め、脳科学や言語学との連接可能性を具体性を持って提起した議論は、私にとっては新鮮だった。たとえばアンデルセンについての分析で、ドイツ語やオランダ語を学ぶ程度では表面化しないのに、ラテン語を学習しようとすると露呈する「学習障害」について触れられている。この議論の裏づけは、少なくとも本書のみでは不十分だと感じられるが、これから私なりに深めて考えてみたいと思わせられた。
著者の主張は、第7章にまとめられている。つまり、従来「学習障害」として十把一からげにされて特殊教育の中に放り込まれたり、教科的な区分で指導がなされていたものを、脳のさまざまな部位の障害として捉え直すことで再分類し、それぞれの特性を明らかにした上で、「障害」の性格に合った「支援」の必要性を訴えること。
私としても、それは必要なことだと思う。ただ疑問としては、タイトルにも滲み出ているように、一歩間違うと「それぞれの個性に合った教育を!」の脳科学ヴァージョンになってしまうのではないか、という点がある。「障害を克服する」「補う」「活用する」という発想は、システムの現状を根本的には追認することにつながりやすい。「知的能力が、全般にわたって劣っているケースもある」(p176)と著者は断っているが、そのようなケースについての検討は皆無だと思う。本当は、社会を構想する上でそれこそ真に深刻な問題ではないか…