すべては、「春の雪」の301頁の聡子の科白、
「(前略)、こんなに生きることの有難さを知った以上、それをいつまでも貪るつもりはございません。
どんな夢にもおわりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思うのは愚かではございませんか。
私はあの『新しき女』などとはちがいます。
‥‥‥でも、もし永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。
‥‥‥本多さんもいつかそれがおわかりになるでしょう」
本多が60年かけても分からなかったことが、
すでに、聡子は知っていたとしか思えない。。。
とすると、一番恐ろしいのは、その聡子にすべてを教え込んだ、
蓼科ではないだろうか、卵を飲みこんだ時のあのおぞましさ!
というのは冗談ですが、
個人的には、なぜか、西遊記を思い出した。
誰にも負けない力を持つ孫悟空と積み上げた論理的思考で世界を知ったかに見えた本多、
慈愛の心をもつ三蔵法師と深い愛を知り磨き上げられた感性をもつ聡子。
唯識論というインドの経典を求めて、人生という旅に出る。
仏の手のひらで踊っていたのは本多ではないのだろうか。
驕れる人も久しからず、
絹江の認識していた世界が、絹江の阿頼耶識によるように、
世界や歴史と認識していたものは、本多の阿頼耶識に過ぎず、
ただ因果が相互同時に起こる永遠たる今があるのみ。
今やすべてを知っていた聡子の言葉で、最後に本多も世界の秘密の鍵の片鱗に触れたのではないか。
大乗仏教が築き上げたこの経典が、本当の世界であろうと、神聖なる詭弁であろうと、
仏門に入らぬ限り、醜く老いて行く。もしくは神道が骨抜きにされ、日本自体が老いて醜くなったと言いたいのか、
三島氏の、文学作品、天皇崇拝、美、精神、その天才、その武士道。
これを、本物、またはその亜種にするために、自決しなければならなかったのではないか。
一読して思いました。かぶり、とんでもない瑕疵あればすいません。長文失礼。