グラース家の神であるシーモアの自死は何だったのか。
一家のほぼ全員がシーモアを神聖視する中、バディが淡々と(語ろうとして苦心惨憺で)描くシーモアの素顔。
普通は子供に最も影響を及ぼすのは親なのだが、その親すら息子の亡霊に取り憑かれている。
しかしそれはシーモア自身が望んだことではないし、寧ろそのことに傷付いている。
「おまえがぼくの意見よりもおまえ自身の意見を尊重するようであれば、まったく幸福なんだが」
バディに宛てた手紙、バディの書いた作品への批評の中に、シーモアの苦悩がある。
若い頃、「ナイン・ストーリーズ」の「バナナフィッシュにうってつけの日」の中で、
シーモアが自死したことについて、私は少女の嘘が直接の原因だと思っていた。
しかし今、サリンジャーその人の死にあたって作品群を読み返し、違う意見を持つ。
シーモアの自死そのものが、悲劇ではないということ。
彼は世界に絶望したから死を選んだ訳ではない。
少女が「バナナフィッシュを見た」と言ったことが真実だったから―
世界が完璧であるから、完璧に美しいことを見届けたから、肉体を捨てたのではないか。
この世において「見るべきものは見つ」という境地に達したから、自ら新たなステージに移行したのだ。
バナナフィッシュを見る人間を発見することが、彼にとってのゴーサイン、隻手の声だったのだ。
原題の a perfect day for bananafish が「バナナフィッシュにとって完璧な日」、とも読めるように。
そうすれば彼が少女の土踏まずにした接吻も、説明がつくような気がする。
あれは最大の感謝の証であり、この世界への優しいお別れだ。
「テディ」で描かれた事故死と、シーモアの自死は、同じことなのだ。
シーモアの自死が世界への絶望であれば、サリンジャーが91歳まで生き切ったことの説明がつかない。
「老人と海」の老人が生き抜いたのに、ヘミングウェイが自死したのは、理想に現実が追いつかなかったからとすれば、
サリンジャーにはまだまだ見るべきものが世界にあった、ということだろう。
それでもサリンジャーには、まだグラース家を、特にブーブーや双子の世界観を書いてほしかった。
一家の中で最も安定しているように見えるブーブーの素顔を知りたかった。
作品は作家から独立したもので、作者のプロフィールは公開する必要がないと言ったサリンジャーだったから、
一切の批評を受け付けない死後に、グラースサーガが完璧な形で発表されないかと願っている。