漱石の『夢十夜』を学生たちと読んでみた、という体裁をとっており、『夢十夜』をもじって「こんな授業をした」と毎回始まります。
留学生も含まれている(後書きを読むと、留学生のいたクラスを持ったこともあるとのことで、このゼミの構成員は事実そのままではなく、創作が入っているらしい)なかで、学生それぞれの夢の分析(明治という時代が漱石に及ぼした圧迫とか)がひとつずつ、そしてそこから高山宏が自在に奇想の翼を広げてゆくのが読みどころです。
たとえば最初の、「もう死にます」という女の話では、女の瞳に映った自分というところから、ナルシスを通じて神話批評にうつり、ノースロップ・フライやマリオ・プラーツへ、また数字の語呂合わせのシンボリズムなどにも触れながら、縦横に近代西欧の知のネットワークを逍遥します。
第三夜の、背中におぶった子どもが石のように重くなる話では、ピクチャレスクや遠足詩、また、この話はメタ・ホラー論だとして、フロイトと漱石の関係にも説きおよびます。もちろん江戸から明治へという大きな時代の流れへの目配りもあり、漱石個人を越えて大きな思想史を立ち上げている部分も。
高山宏の本をかなり読んできた読者なら、なじみの小径を見つけ、それがこんなふうに絡みあうのか、と楽しめる一冊ですが、今回、全体を貫いているのは「画文共鳴」(エクプラーシス)という批評法でしょうか。絵とそれに触発された文学という視点、漱石の『夢十夜』においてもまことにうまく機能しています。
最近の大冊であとがきにも出てくる『新人文感覚』の二冊は残念ながらまだ読んでいないのですが、それへの小エチュードとして読める本ではないかと思います。
巻末には学生の書いたレポート(レベル高い!!)や板書まで収録されており、学生であれば、この一冊を「レポートの書き方・虎の巻」として利用できます。
それは漱石論の場合ということではなく、何かについて独自の分析角度を入れて論じようと思ったときに、これだけの入れ方があるのか、また、こういう知識をこういうふうにネットワークに編んでいくのか、とその構造化の力に感服できる、という意味です。
『夢十夜』は幻想文学のストレートな形として、いろいろな読みにつながりやすく、今回「高山宏流」のかっこうの材料になったかたちで、知の華麗なるアラベスクに眩暈がしました。特に板書は、これこそ「マインドマップ」!!