本書を一般読者が目にした場合おそらく感じられるであろう誤解。それは「夢は類型化などできないはずだ」といったものだろう。
まず、フロイトは夢の解釈の際、「連想は本人に任せるべきだ」という点を強調し、その多様性を積極的に認めているのである。(詳しくは「夢判断」等を参照されたい)
ただし、同時にフロイトは多様であるはずの多くの人が同じようなパターンの夢を見ることにも注目した。それが類型夢である。つまり、類型夢という発想はフロイトの勝手な妄想というよりも、むしろフロイトが観察とデータを重んじ、実証的であったことの証なのである。
夢を理論化する場合、「ひとそれぞれ」では理論にならないので、どうしても類型の方にばかり注目が向かう傾向があるようだ。一般にはフロイトは夢の象徴とその意味の対応関係を明らかにした、などと思われている。しかし、それはたいして重要なことではない。むしろ重要なことは「圧縮」「置き換え」などの夢の変形作業の仕組みなのだ。
(実際、フロイト自身にも地理的、歴史的、階級的等のバイアスがあったことは認めねばならない。例えばフロイトは列車の夢は、彼方への旅すなわち「死」を意味すると述べているが、通勤通学で日常的に列車を利用する現代人にこれは当てはまらないだろう。ここから直ちにフロイトを捨て去るのではなく、では何が現代人にとって「死」の象徴の位置を占めているのだろうか?と考えてみることが大切なのだ)。
また、本書は著者の周囲の人々の夢を素材としている。つまり転移集団が前提にあるということだ。著者は夢のメカニズムをなるべく形式的に記述しようとしている。それでも転移集団内部のディスクールを他人が聞くときの戸惑いをある程度本書の読者は経験せざるをえないだろう。
ところでいったい誰が赤の他人に自分の夢を語ったりするだろう?あるいは誰が好き好んで他人の夢に真摯に耳を傾けたりするだろうか?そうここにはパラドックスがあるのだ。転移がなければ深い分析は成立しない。深い分析がなければ理論は弱くなる。理論は形式的・普遍的でなければならない。ところが転移は個別的・排他的である。(フロイトの活動も最初は身近な知り合いを対象として始まった。同様の矛盾をフロイトも感じたことだろう)。
とすると、本書に書かれなかったこと、書けなかったことのなかにこそ真実があったはずなのだ。評価の星が一つ欠けているのは、そこから現実界(ラカン)に通じているというわけだ。
本書をパスポートがわりにさらに深く自分だけの夢の世界を自分なりに旅してみること、それが著者からのメッセージではないだろうか?