’89年、自身の第3長編『日の名残り』で英国および英連邦文学の最高峰「ブッカー賞」に輝いたカズオ・イシグロが’09年に発表した初短編集。本書は、何年かに書き溜めておいた短編を集めたものではなく、イシグロが「今回は短編を書くつもりで短編を書いた」という5編の書き下ろし短編からなっている。
「老歌手」往年の名歌手が、結婚27年目にハネムーンで訪れたベネチアを再訪。ある夜、ギタリストの‘私’に伴奏をさせてゴンドラに乗って、別れる寸前の妻のいる窓べの下でセレナーデを歌う。
「降っても晴れても」47才の冴えない英語教師の‘ぼく’は友人から離れ始めた妻の心を引き戻すため、自分の“引き立て役”になってくれと頼まれる。事態は思わぬ展開になり、‘ぼく’の笑うに笑えない奮闘が始まる。
「モールバンヒルズ」芽の出ないミュージシャン志望の‘ぼく’はイギリスの田舎で姉夫婦のカフェに居候する。そこで倦怠期を迎えたスイス人の夫婦デュオと出会い、励まされる。その後の彼らがどうなるのか気になるという余韻が残る。
「夜想曲」才能はあるのに売れない醜男のテナーサックス奏者の‘おれ’は整形手術を受ける。包帯で顔をぐるぐる巻きになって回復中のホテルで、隣室のセレブ(「老歌手」に登場したくだんの妻と同一人物)と共にとんでもない“夜の散歩”を体験する。
「チェリスト」ストリート・ミュージシャンの‘私’は7年ぶりにそのハンガリーの若者を見かける。かつて彼は自らを“大家”という41才のアメリカ人女性に、彼女のホテルのスイートでチェロの特訓を受けていた。やがて別れとお互いの再出発の時が・・・。
本書は、「音楽」と「夕暮れ」を共通のモチーフとして、“音楽の才能”、“夫婦の黄昏”、“男と女、人と人とのすれ違い”をイシグロ流のセンスで描いた逸話ぞろいであり、その、時には大真面目な、時にはコメディタッチなユーモアに思わず微笑みながらも、読み終えたあと胸に沁みる、いい短編集である。