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外交回想録 (中公文庫)
 
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外交回想録 (中公文庫) [文庫]

重光 葵
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商品の説明

内容紹介

駐ソ・駐英大使等として第二次世界大戦への日本の参戦を阻止するべく心血を注ぎ、1941年7月帰国。日米開戦直前まで約30年の貴重な日本外交の記録。

内容(「BOOK」データベースより)

ドイツを皮切りに、アメリカ、中国、ソ連、イギリスで公使・大使等として活躍。第二次世界大戦への日本の参戦を阻止するべく心血を注ぐが果たせず、チャーチルとの会談を最後に一九四一年七月帰国。日米開戦直前まで約三〇年の貴重な日本外交の記録。

登録情報

  • 文庫: 421ページ
  • 出版社: 中央公論新社 (2011/7/23)
  • ISBN-10: 4122055156
  • ISBN-13: 978-4122055155
  • 発売日: 2011/7/23
  • 商品の寸法: 15 x 10.6 x 2 cm
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5つ星のうち 5.0 重厚な人生でしたね, 2012/4/24
レビュー対象商品: 外交回想録 (中公文庫) (文庫)
重光葵は、一八八七年(明治二十年)に大分県に生まれ、二十四歳で東京帝国大学法学部独法律学科卒業。外交官になった以降を本書の回想録に記述、ただし本書の記述は一九四一年七月に帰朝するまでである 
19「一九一一年の外交官と領事館試験に及第して〜。」 20「私はドイツ大使館に外交官補として赴任することになり、〜。〜。〜私は門司から熱田丸に乗り込み日本を出発した。」 22「こうして四十日にわたる長い航海はフランスのマルセーユ港で終わりをつげた。〜。〜急行列車でベルリンへ向かった。」 23「こうしてベルリンにおける私の外交官生活が始まった。」
25「〜独墺伊の三国同盟に英仏露の三国協商が対抗するというのがヨーローッパの情勢であった。〜。一九一四年六月二十八日、オーストリア皇帝の唯一の跡継ぎ、フランツ・フェルジナンド大公(皇太子)がセルビアのサラエボを視察中にセルビア人に暗殺された〜。」 28「八月四日、ドイツの戦時議会が開かれ、〜。〜。ドイツ軍が既にベルギーに侵入、フランスの攻撃に向かっていることを明らかにした。〜。ベートマン・ホルヴェヒ宰相の議会演説が終わるとまもなく、英国の参戦があわただしくベルリンにも報道された。」 35「八月十七日船越代理大使がこの最後通牒文をドイツ政府に手交し、これによって日独国交は決裂して戦争状態にはいることになった。」 40「二十四日の夜明け間もなく私達は大使館を出発した。」 41「汽車は故障もなく国境を通過し、オランダ領に入り、その日の夕刻にはヘーグに到着、〜。〜。〜二十六日にヘーグを出発、ロンドンに向かった。」 44「今まで西洋、あるいはヨーロッパというものをドイツとドイツ語を通して見ており、このドイツを通して見たものを西洋だと思っていた。今イギリスに来てみてこの考え方のたいへんな誤りだということを痛切に感じた。」 48「私は戦争という偶然の機会でロンドン在勤となったのだが、〜。」 55「私は一九一八年の春、突然アメリカ西海岸オレゴン州ポートランドの領事に転任を命ぜられた。」 55「まだ三十歳を越えたばかりの私は、このアメリカ新大陸の象徴(自由の女神)を眺めながらニューヨーク港にはいって行くことに大きな精神的興奮を覚えた。」 56「シカゴを経てグレート・ノーザン鉄道によって西海岸に向かい、五月の末にポートランドに着任した。」 58「米国も既に参戦しており、カーキ色の軍服姿が多くなっていた。」 59「私はわずか半年でポートランドを去ることになったのだが、〜。」
60「その年(一九一八年)の十一月十一日にヨーロッパを中心とする第一次世界大戦の休戦が成立した。そして平和会議がパリで開かれることになった。」 61「〜、貴官はポートランド在勤を免ぜられ、〜、平和会議に全権随員として出張しろという命令であった。」 62「〜、イギリス船カーマン号で大西洋を渡ったが、〜。〜リバプールに上陸、ロンドンを経て〜フランスのカレーに渡るパリ行き直通の連絡列車に乗った。」
67「こうして一年余の日数をかけて、第一着手として対独条約の草案ができあがった。〜。この条約の作成に当たって日本に直接関係があったのは山東問題であった。この問題では日本代表部と中国代表部の間で正面衝突を来す結果となった。」 69「私は引き続きパリに残り残務に当っていたが、一九二〇年の春になって帰朝することになった。その帰朝命令を受ける直前、母の病気の知らせに引き続いて、死去の電報を手にしたことは私に終生忘れられない深刻な衝撃を与えた。」 71「それから間もなく一九二〇年の六月にパリを出発した。ロンドン、ニューヨークを経由し、〜。〜、サンフランシスコからホノルルを経て、九年ぶりに東京に帰り、〜。」 72「それから間もなく、〜郷里の大分に帰った。」
73「私は<一九二〇年>外務省参事官ということになった。」 74「〜、戦後の後始末の一つとして、日本海軍が占領した南洋諸島の行政的所管をどうするかという問題が起こってきた。〜。〜、軍艦春日を旗艦とする艦隊を作り、これに調査に必要な人員を乗せて南洋一帯を巡航することになった。私は〜、これに加わった。」 75「台湾で私は一行と別れ、〜。〜。〜孫文に会見、長時間意見の交換を行なった。」 76「この頃の重大問題としてはワシントン会議の開催があった。ワシントン会議の表向きの議題は海軍軍縮問題であったが、〜。〜。第一には日本軍が占領し、管理している膠州湾を中心とする山東省を中国に返還しなければならなかった。第二には〜関税自主権の返還〜。さらにこれに続いて治外法権撤廃の問題〜。」 77「ワシントン条約によって、中国側がもっとも嫌った日英同盟が廃棄された。」 79「当時の中国の情勢は全く群雄割拠の有様で、北京政府はただ名目上のものに過ぎなかった〜。」 81「〜日を過ごしている間に中国内部の混乱状態は一層激しくなり、〜、北京付近は内乱の戦場と化してしまった。〜。北京に乗り込んだ張作霖は大元師と自称し、〜。」
82「私が駐独大使館参事官としてベルリンに着いたのは一九二八年の六月頃だった。」 83「ところがわずか半年しか経たぬ十二月に、〜吉田茂次官から帰朝を促してきた。〜、あわただしくベルリンを出発することになった。」
84「東京に帰ると吉田次官が待ち構えていて、〜、この際中国に行ってくれという。〜。済南事件(一九二八年)以来、日本軍は未だに済南及び青島−済南の連絡路線を占領しており、これが原因で日華は国交断絶状態となり、〜。」
99「ここに交渉に難航を極めた済南事件も十一ヵ月ぶりでついに解決したのである。」
104「〜田中<義一>内閣は、張作霖爆殺事件<一九二八年六月四日>が、満州某重大事件として議会で大問題となり、苦境に立つに至った。この事件の真相は戦後の東京裁判で初めて一般に明らかにされたのであるが、当時天皇陛下も御心痛になり、〜。」 105「田中首相は六月二十九日『満州重大事件』の調査内容を発表することに一度は決定し、その文案までできあがっていたが、〜、陸軍側の猛烈な反対で発表を中止し、ただ責任者として河本大作大佐を停職としただけだった。しかし、これと同時に内閣総辞職を決意、満州事件は闇から闇に葬られ〜。〜。田中内閣の後には浜口<雄幸>民政党内閣ができ、〜。」 
107「〜長いあいだ中国公使として功労のあった芳沢公使を大使に昇任させることになり、〜。」 108「こうして佐分利氏が〜中国に行くことになり、私はその赴任前に上海に帰り準備を整えることになった。」 109「佐分利公使が箱根でピストル自殺を遂げた、という新聞報道が、街の角々に張り出され、〜。」 113「〜(一九三〇年)私を大使館参事官兼総領事として上海に駐在せしめ、参事官の資格で代理公使に任命して、〜。」
116「蒋介石は当時二つの大きな敵をもっていた。一つは北方における反蒋勢力であり、他は江南における共産軍の勢力だった。」 118「〜、蒋介石は南京に凱旋して、中国南北統一の戦勝祝賀会を開き、また〜張学良が南京を訪問、蒋介石と会見交歓している。」 119「張学良は張作霖爆死後は日本側とみられる楊宇霆を自ら射殺して自らは国民党に加入、〜明らかに日本に対抗する態度を示した。」 120「当時はロンドン海軍軍縮条約の批准問題をめぐって、激烈な国内闘争が行なわれ、浜口首相が狙撃されるという事件<一九三〇年十一月>まで起こった。浜口内閣を継いだ若槻内閣はますます弱くなってくるし、〜。」
127「蒋介石は<一九三四年>六月二十一日に南京を出発して共産軍討伐の途につき、ここで蒋介石と共産軍との激烈な戦争が開始されることになった。蒋介石は長期の戦いの後に、共産軍を江南の地から追うことに成功し、ここに共産軍の有名な西遷が始まったわけである。」 132「〜、上海北停車場における宋子文射撃事件というのが起こった。〜。日華の間に事を起こそうとしきりに策動していた。駐華公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉大尉〜。」 136「日華関係を改善しようと苦心している<私>重光公使は〜宋子文と共に片付けてしまえ、〜。田中大尉は宋子文が私と同じ列車で上海北停車場に着いて並んで歩いているところを一緒に射撃させようとしたのであった。」 139「〜私は<一九三一年>八月六日に、代理公使から正式の全権公使に昇格、〜。」 141「〜、遼東半島に旅順、大連などの租借権をもち、〜。日本はこの租借地及び鉄道付属地には日本の国内法を適用し、日本の領土と同じように見ていた。〜。朝鮮人を含む日本人は奥地でも自由に事業を経営し、また自由に往復することができるようになっていた。」 144「<一九三一年>九月十九日の朝、柳条溝で両軍が衝突した〜。」 145「〜、日本軍の行動は鉄道付属地を中心として、南満州いたるところに広がり、〜。」 147「〜関東軍司令官は朝鮮軍の応援を得て、南満州から張学良の残党を追い払うために行動を起こしていた。そして九月二十八日には張学良の去った後に〜、満蒙独立宣言なるものを発表し、〜。」 149「土肥原特務機関長が天津に赴き、そこに住んでいた清朝の廃帝、宣統帝溥儀を満州の統治に引き出す挙動をしていた。」 150「国際連盟の理事会は十二月十一日、満州における日本の行動を非難する決議を満場一致で可決し閉会した。国内では若槻内閣が十二月十一日に総辞職し、十三日に犬養内閣が成立、〜。」 151「満州事変が始まって以来中国の排日空気は急に激しくなった。」 153「私は〜一月十二日(一九三二年)上海を出発、十五日朝入京、直ちに外務省の幹部と打ち合わせをした。」 156「私は一月二十七日に東京を出発、二十九日神戸発の長崎丸で上海に急行した。」 157「わが海軍陸戦隊の第一、第二、第三大隊も行動を起こして〜、ここについに十九路軍と衝突するようになった。十九路軍もまた直ちに攻撃を開始してきて、上海の市街は未曾有の混乱に陥った。」 159「私は直ちに上陸し、郵船波止場に隣接している総領事館にはいり、〜。」 161「そこで私は自ら筆をとり、一刻も速やかに十分な陸軍兵力を上海に送ってもらいたいと政府にその日(二月一日)のうちに電報で要請した。」 165「日本陸軍の主力、第九(植田)師団は二月十三日に上海に到着、〜。」 166「わが軍は二十二日は廟行鎮を占領したが、いわゆる『爆弾三勇士』なるものが報じられたのはこのときであった。〜。〜、政府も二十三日の閣議で第十一、第十四両師団を増援することに決定、〜。白川大将は〜、三月一日未明上海に到着、〜。」 167「日本側の目的として内外に声明していた上海地区を脅威している十九路軍の撃退という目的は、三月三日にほぼ達することができたのである。しかしこの三月三日というのは、日華の紛争を解決する国際連盟の総会が開かれる日である。」 171「<私の>自動車は直ちに陸軍の総司令部に向かった。」 172「白川総司令官の事務室はもと鐘紡の重役室である。」 173「私は白川総司令官に対して『〜さぞかし天皇陛下はこのことについて御心配をされておるでしょう。恐縮に耐えません』と言った。〜。『白川は戦争を止めます。停戦命令を出します』と言って着席した。」 178「三月十九日に始まり、五月五日に調印されるまで、一ヵ月にわたって開かれた交渉は、〜、実際には英米等の代表者の仲介もしくは介入によるもので、〜。」 184「しかし日本軍部と、英米公使と、中国側との間を往復して説得に努め、ようやく撤収地域問題にについても妥協にこぎつけた。」
186「観兵式<一九三二年四月二十九日>には上海にいる各国公使、総領事、領事ら、その他外国武官も多数案内されていた。」  187「二回目の君が代がまさに終わろうとする瞬間であった。<朝鮮人によって>異様な形をした金属性のものが式台の上に投げられた。」 188「〜、水筒形のその怪物は爆発した。爆音は強かった。〜。止むを得ず倒れたままで脚部に目を注ぐと鮮血がズボンを通してほとばしり出ている。『やられた』と思った。急に強い苦痛を感じ始めた。」 192「診察室にかつぎこまれ、一番はしの診察台にのせられた。」 193「傷は腰から下全部で、大小の傷はすき間もないくらいだった。あまり傷が多いので手がつけられなかったのは事実らしい。」 206「〜、妻は生まれて間もない赤ん坊を抱いて神戸を出発、上海に向かった。」 208「停戦協定の署名が終わって間もなく、後藤教授が見えて、いつになく種々と説明が長かったが、終わりに至って右脚を切断のしかるべきを述べ、これは兄とも相談したが、自分にも承知してくれろということだった。」 211「〜、助かった左の脚から大小の断片を取り出すための手術が引き続いて行われた。」 217「〜、五・一五事件<一九三二年五月五日>が起こり犬養首相は官邸で殺された。〜世相の容易ならざることを痛切に思わされたのであった。」 219「〜船は上海を去った。長崎に上陸して汽車で福岡に向かった。旅行は終始痛みの旅であった。福岡の大学病院後藤外科で第二の切断手術を行い、さらに左脚、右手から残っている弾片を摘出した。八月一日にはようやく退院ができて、〜。こうしてやっと医師や身内のものの許しを得て上京の途についたのは年を越した昭和八年(一九三三年)の三月二十六日であった。」 220「予め打ち合わせたとおり翌四月六日午前九時半東京駅に着いた。〜。奥まった皇居内の拝謁はきわめて厳かなものであった。天皇陛下には力強いお声をもって勅語を賜い、感泣して退出した。」
233「〜、満州国は帝政とすることになり、一九三四年一月二十日にそのことが発表され、三月一日に満州国皇帝の即位式が挙行された。」 234「外務省では中国及び満州問題については外務次官である私を中心にして対策を講じていた。」 255「二月二十六日(一九三六年)の早朝、五時過ぎたばかりの頃、〜外務大臣秘書官から私のところに電話があり〜。」 256「昨夜総理官邸に異変があったようで、その一帯は軍隊が占領していて、はいることができない。〜。内務省や警視庁は軍隊によって占拠されている。それに隣接する外務省は無事だが、これも不安である。〜。この電話で何が起こったかはおよそ見当がついた。〜。〜霞ヶ関の一角から大蔵省の前当たりには歩哨が立っていた。私は別にとがめられることもなく自動車で外務省にはいった。」 257「その日は電車もとまるほどの大雪で、そのため出勤を妨げられた者も多かった。また永田町を中心とする一帯は要所要所を反乱軍が固めていたために、外務省に近寄るのは困難だった。〜。その日は無事に過ごすことは出来たが反乱は翌日になっても鎮定しない。世間は騒然たる有様だったが、ただ事態の成り行きを傍観しているに過ぎない。」 258「二十八日だったと思うが、〜。〜。宮内省では元老や重臣や閣僚たちが、床の上にそのまま起居している状態だった。ちょうど岡田首相が隠れ家から出てきて参内したときで、私は首相に会ってその無事を祝することができた。」 259「二・二六事件によって閣僚は宮中に避難して内閣は消滅の状態となり、陛下は直接軍当局に反徒鎮定を命令されるという有様であった。岡田首相も現れるとともに辞表を捧呈し〜。」 263「蒋介石は〜、西安で張学良と会見した。当時華北方面一帯は延安に本拠をおく共産軍の戦力範囲で、〜。その共産勢力の地域に逃げ込んで行った張学良が日本反対という点で共産軍と完全に一致し、〜。張学良は共産党の領袖周恩来と共に、蒋介石にこの際は共産軍と共同戦線で外敵日本に当たることを強く進言したが、蒋介石が共産党と妥協することを承知しないために、ついに<一九三六年>十二月十二日蒋介石を監禁し、〜。」
266「<一九三六年>十一月五日東京を出発、単身ソ連赴任の途についた。」 267「「〜十一月二十五日夕方モスコーに到着した。」 268「奇しくも着任の日にソ連が不快とする日独防共協定が発表され、〜。」 278「〜、一九三八年七月十一日に〜ソ連兵が越境してきて、満州国と朝鮮とソ連領沿海州の三つの国境に近い張鼓峰を占領したということが報道され、〜。」 279「私は二十日にリトヴィノフ外務人民委員と会見して、〜。」 281「〜三十日夜半に〜。ここで日ソ両軍の間に激戦が展開され、〜。〜。〜八月四日再びリトヴィノフに会見し交渉を再開した。私の主張は従来の線に沿ったもので、日本軍も衝突地点から撤退するが、同時にソ連軍も撤退して、その後に国境線を双方の委員によって画定し、〜。」 283「〜、ソ連軍は八月十日には既に日本軍を撃退し、張鼓峰の頂上を回復しており、ソ連側が国境と主張する線に到達していた。」 285「〜、日本側の態度が平和的で、ソ連側の態度がむしろ好戦的であるとし、同情は日本側に集まってくるような有様だった。この欧米の世論の交渉に対する批判が、ソ連側の態度にもよほど影響したようである。〜。その点ではソ連側でもリトヴィノフの面目が傷つけられたと見たようである。東京裁判におけるソ連の私に対する態度はまさにその復讐と見られたのである。」
286「ヒトラーが一九三三年以来急激に抬頭したナチの勢力を率いて〜、同年三月総選挙に大勝、〜。〜。日本が一九三三年国際連盟を脱退すると、ついでドイツ、イタリアもこれにならい、〜。これに入れ替わってソ連が国際連盟に加入して〜。」
289「一九三八年五月、第一次近衛内閣〜。」 290「モスコーからロンドンに転任することはある意味で栄進には相違なかった。〜。当時日本の内情は混乱をきわめ、派閥、対立が多く、軍部は国政全部の実権を握って、その希望する政策を内外にわたって実現しようと企図していた。〜。そのためには外務省の内部にいわゆる革新派なるものを軍部に呼応せしめ、独伊との間に同盟を締結して、ソ連及び米英を敵性国家として排撃しようと企図していた。」 303「英国との関係がどうなるかわからぬと心配された『漢口陥落』のその日、皮肉にも私はロンドンに着任した。」  312「英国に来てからすでに半年、寧日とては一日もなかった。」 314「「ドイツ軍のポーランド侵攻によって事実上ヨーロッパ戦争は始まった。〜。一九三九年九月一日に始まったポーランド侵入は電撃二週間で片がつき、一ヵ月目には独ソ折半の第四回ポーランド分割が実行されてしまった。」 315「英国の対独宣戦布告<九月三日>は労働党や自由党、それに一般世論に強要されるような形でおこなわれた。」 319「スターリン帝国は急速に擡頭し、ムッソリーニ及びヒトラーの反連盟主義の横紙破りも次次と成功してきた。日本もこれに続いた。米国は中立を守って傍観的態度をとっていた。英国の将来の方向を定めるには実に容易でない時代であった。」 322「〜満州事変から日華事変になり、日本軍が華北から華中へ、華中から華南へと進み、さらに仏印に進駐するに至って日英関係はすでに大石を急坂に転がすようなことになった。」 325「チャーチルの母が米国人であることは、彼の性格上にも政策上にも見逃すことはできない。」 326「チェンバレンの下で海相にあったチャーチルが首相になって、労働党、自由党とともに連立内閣を作った。」 327「ダンケルクの撤退後、英国は苦戦を続けた。空軍を先頭に海軍は北海、地中海及び大西洋全域で戦った。陸軍は本国を護りながら再組織され、自治領軍とともに、北阿に、エチオピアに苦しい戦争を続けた。」 328「〜、チャーチルは老躯を提げて米国のルーズベルトにお百度をふんだ。米国を味方に引き入れることに懸命の努力であった。」
331「七月下旬(一九四〇年)〜。〜。東京駐在の英国陸軍武官は日本の参謀本部に呼びつけられ、〜大体次のように言い渡された。すなわち英国は日本の敵蒋介石を援助している。香港ビルマ路はこれが閉鎖を要求する。英帝国は今日すでに滅亡に瀕しているから日本の眼中にない。外務省(日本の)の如きは全然無力で、なんら日本の実勢力を代表してはいない。」 336「フランスが降伏し(一九四〇年)ダンケルク撤退の一幕となってから、英国は大陸に派遣してある軍隊を全部本国に引き揚げて、ドイツ軍の侵入に備えるほかなくなった。」 339「陸軍の力を全部フランス軍に依頼していた英国はフランス降伏後は国を護る陸軍は事実上皆無と言ってもよかった。植民地や地中海方面に派遣してある軍隊の召還はとても急場の間には合わない。もしドイツ軍が一挙に海峡を渡って侵入してくれば英帝国はどうなるか。〜、英国内部にも相当悲観論者がいた。」 341「ドイツの対英空襲はますます盛んになってきた。ポーランド戦やフランス戦の場合と同様で、まず飛行場を襲い、英空軍を撃滅しようとするのである。昼間大編成で来襲する。英空軍も死力を尽くして防戦する。英国の空の護りは堅かった。英空軍はやられても、やられても飛び出した。〜。その効果はだんだん大きくなった。」 342「こうしてドイツ軍の一九四〇年夏季侵入は不成功に終わった。」 343「フランスの降伏とともにまたまた三国同盟論が勢いを得てきた。」 344「〜、ドイツが圧倒的勝利を得るのは目睫の間に迫っている。イタリアの参戦でその勢いは決定的となった、英国の破滅の時期は眼の前にある〜。〜。時期を逸すればデモクラシー諸国の滅亡による植民地の分け前確保ができなくなる。」 345「革新の旗幟によって『新体制』をスローガンとする<第二次>近衛内閣ができた。」 347「〜、九月のある日、〜。」 348「三国同盟の報道がロンドンに到着したのである。〜。外交陣の刷新断行のためにはほとんど全部の大公使が松岡外相によって罷免され、〜。その後任や本省の要路には多くの革新派なるものが登用された。〜。なんのことか、外務本省の混乱と逆上ぶりが手にとるようであった。」 354「空襲は昼夜行なわれた。」 355「ロンドン人の多くは市街いたるところに作られた避難所で一夜を明かす。避難所が足りなくてチューブ式地下鉄の停車場にはいるものも少なくない。非常な混み方である。」 
365「一九四一年二月二十四日、私は〜首相官邸の閣議室でチャーチル首相と会見した。〜。〜、チャーチルもそれ以来の交情を叙して話を進めた。」
381「六月十二日(一九四一年)に私はチャーチル首相に別れを告げるために首相官邸を訪れた。」 384「チャーチルが英国の指導の決心と覚悟を語るとその両目が熟してきて、ついに我慢しきれない表情になって熱涙がほとばしり出た。そして席を立つと私に一路平穏を祈って手を差し出した。」 385「ロンドン出発は六月十六日となった。」 389「リスボンをやっと出発できたのは六月二十九日であった。〜。クリッパー機は客が四十六名、乗員が十三名、そのほか郵便物が満載してあった。」 390「〜英領バミューダに翌朝着いた。〜。バミューダから西北に、ニューヨークに向かって出発したのが午前十時近くであった。」 391「二日の午後にはワシントンを出発して米大陸横断飛行の途についた。途中数ヵ所に着陸してロサンゼルスに着いたのが朝の七時過ぎだった。」 392「〜、サンフランシスコに着いたのは昼前だった。」 395「サンフランシスコからの私の乗船は鎌倉丸で、平和の時における日米連絡船としておそらく最後のものであったろう。〜。船が横浜に着いたのはたしか七月十九日と記憶しているが、私は太平洋航行中の船室で〜、辞表を認(したた)めて用意した。」
本書の巻末397〜404頁の年譜によると、一九四一年七月に帰朝、同年十月東条秀機内閣成立。十二月八日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃・対米英宣戦布告。十二月に中華民国在勤を命じられる。一九四二年一月南京着任。九月帰朝を命じられる。一九四三年三月に外務大臣に任じられる。一九四四年七月に外務大臣兼大東亜大臣に任じられる。一九四五年四月、願いにより本官ならびに兼官を免じられる。同年八月十四日、無条件ポツダム宣言受諾。八月十五日、戦争終結の勅書を放送。九月二日首席全権としてミズーリ号艦上で降伏文書に調印。一九四六年四月A級戦犯として逮捕・起訴。一九四八年十一月極東国際軍事裁判判決、禁固七年の刑。一九五〇年十一月巣鴨拘置所から仮釈放。一九五二年改進党総裁就任。一九五四年民主党結成、副総裁に就任。外務大臣に任ぜられる。一九五七年一月逝去。
なお、本書(132頁)に出てくる「田中隆吉」はなかなか複雑な人物だったらしく「敗因を衝く 改版―軍閥専横の実相」(中公文庫)という著作がある。
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