著者の専攻は比較文学。「もてない男」の刊行で一躍論客として脚光を浴びた。本書は、著者の本業とも言える比較文学の手法で、江戸文化の浄瑠璃、落語、読本等に基づいて、漱石の作品を分析したもの。取り上げられる作品は「坊ちゃん」、「虞美人草」、「三四郎」、「それから」、「行人」、「こころ」、「明暗」。私は全ての作品を読んでいたので、著者がどういう切り口で分析するのか興味津々だった。
「坊ちゃん」は主人公自身が江戸っ子自慢という設定なので比較は詳細に渡る。江戸から明治へと文化が移行して行く中で、むしろ時代に対応している赤シャツの方が勝者であり、「坊ちゃん=滅び行く者」という結論は新鮮。しかし、だからこそ「坊ちゃん」は人気があると思うのだが。「虞美人草」、「三四郎」ではヒロインと「八犬伝」の玉梓、浜路、船虫等とを対比させ、漱石が頭の中では近代的女性観を持ちながらも、体では江戸時代の勧善懲悪的価値観を捨て切れなかった事を主張する。本書中では盛んに「八犬伝」が引用されるのだが、これは著者が「八犬伝綺想」という本を出しているせいもあろう。「それから」の代助に関する考察は鋭いが、江戸文化とはあまり関係がないように思われる。「行人」、「こころ」の純粋心理小説になると江戸文学との比較は意味が無くなる。最後の「明暗」では江戸文化に触れられてもいない。
「江戸から読む」という割には欧米文学もしばしば引用される。これは漱石が欧米文学に通じていた事から当然だろう。また、後半4作は江戸文学との関連性が希薄であり、引用される江戸文学はコジツケの感がある。という訳で、題名には無理があるように思えたが、私にとっては"比較文学論"というのは初の読書体験だったので貴重な経験だった。また、比較文学に捉われなくとも、各作品に対する分析は著者一流の鋭さがあるので漱石ファンにとっては一読の価値がある評論集。