なめらかに話すのは難しい。ときには日本語を憎悪することすらある。そこまで行かずとも順序立てて話す訓練をと思って、論理トレーニング系の本を手に取る人も多いだろう。このとき私たちの注意は話の内容に向けられている。
しかし、もっと別の注意点がある。そのことに気づかせてくれるのが本書。
声は息を吐くことから始まるという、当たり前すぎる指摘が面白い。十分に息を吐く、というところでつまずいている人が多いのだ。
また、息が吐けても、声が相手に届く前に「落ち」たり、「飛び越え」たり、「拡散」したり、「貫通」してしまったりで、たいていの人は呼びかけていることを相手に気づかせられない。(落ちる、とか、飛び越える、ということが次第に「見えて」くる様子が描かれていて面白い。図もある。)
そして、声は届いても、話すための声なのかが問われる。「春が来た」の歌を例にそれを分析しているところが面白い。ちなみに、体に響かせるための詩の解説は初めて読んだ、新鮮であった。
著者は聴覚不全から声を「探し出して」きた人でもあり、本書からは声が本来的には人生と切り離せないという認識を得た。声は単なる「音」なんかでは絶対にない。
それから、声は考察対象として何と魅力的かとも思わせられた。
私事だが、この認識は私の英語学習にも反省を迫った。
英語は人間が使っている言葉であって、その言葉はその話者にとっては人生と直接繋がっているものなのだ。それはパズルや人工言語ではない。
発音もそれによって相手に自分を届けるために不可欠なものであって、それを身につけるための訓練は自分の人生と英語を接続するという生々しい営みなのだと思う。単なる拷問ではない。
本書を読んで、英語を機械的なものとして捉える見方が崩れた。
論理の前に、話術の前に、度胸の前に、まずは声だ。
ぜひぜひ一読下さい。