1953年、まだカラー映画の珍しかった当時、これだけの色彩のカラー化の努力の跡が如実に窺える、正に「総天然色」の絢爛豪華な時代絵巻、である。開発されたばかりのイーストマン・カラーを用いた色彩は華麗にして鮮烈であり、モノクロの画面ばかり眺めていた当時の観客への衝撃の程、はさぞかし強烈なものであっただろう。カンヌ映画祭でのグラン・プリやアカデミー賞の受賞はその華麗な色彩とエキゾチックな衣装と歴史表現に対するもので、肝心の映画の役者の演技や監督の演出・脚本に対するものではない、ことを留意する必要がある。
監督・スタッフも「色」に対する意識が強過ぎて他まで意識が回らなかったのか、役者の演技自体は余り印象に残らない。物語は端的に言えば女に狂ったストーカー男の悲劇を描いたものだが、人妻に横恋慕し、夫を殺してその妻をものにしようとする武士役の長谷川一夫は品があり過ぎて粗野で野蛮な主人公のキャラクターに相応しいとは思えず、むしろ若い頃の三船敏郎みたいな、ギラギラした男の方が向いている、と思えてならない。他のキャスティングも意表を突いたものか、は判らぬが、どちらかと言えば妖艶で、男を誘惑する役の多かった京マチ子が貞淑な袈裟の役を演じるのは違和感があるし、圧倒的に悪役の多かった山形勲が、善良でお人好しの夫の役を演じているのも、金子信雄や西村晃が善人を演じているようで余りしっくりこない。頭に血が上った、にせよ男と女を間違えて殺してしまう長谷川一夫もどうかと思うし、死を覚悟した妻の様子に全然気付かず寝てしまう山形勲のお人好しぶりにも、「女房が殺されたのはお前にも一因がある」と同情できない。
デジタル・リマスターされ公開当時の色彩を再現した復元版を観ても、イーストマン・カラーは青の発色が強く、全体に青味がかった色調が強烈で、特に長谷川の鎧など露骨に青くなった色彩が鮮烈である。小津や内田吐夢はこのどぎつい色調を嫌いアグファ・カラーの、どちらかといえば抑え気味の色彩を好んだが、「映画的色彩のリアリズム」が使うフィルムまで変えたこと、またそれが小津映画の、くすんだような赤の色調に表れていることなど、考え合わせると興味深いものがある。
この映画は現代ではNHKの大河ドラマのように、「歴史の勉強を兼ねた」作品として気軽に観るべき作品である。何しろ監督も役者も、色のことで精一杯で、他のことまで手が回らなかった時代の作品だからである。配役・脚本には些か無理があるし、当時のフィルムは感度が悪いため暗くなると写らないため、屋外も室内も同じ明るさにしなければならなかった苦労が窺えるものだからである(だから夜の室内も、蝋燭一本しか灯りがないのに妙に明るくなっているのである)。繰り返すがカンヌでグランプリを取った、ことやアカデミー賞を受賞した、ことがこの映画の歴史的価値を高めているものではない、のであり「映画をカラーで撮り、保存する」ことの苦労と意義を、今日伝えているものなのであること、留意せねばなるまい。何しろ三色分解のネガが今日保存されているからこそ、今日のデジタル・リマスタリングで公開当時の色彩を再現することが可能なのであるから。最後仏教的な無常感で映画が終わるのも現代では評価が分かれるだろう、何しろ間違えて人を殺しておいて最後まで威張っている、のが長谷川一夫の演技なのだから。