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「・・・・いま、僕は、放蕩にあけくれしています。その理由は、・・・詩人でありたいからです。そして、ヴォワイヤンになろうと努めています。先生は、まるで理解できないでしょうね。僕もほとんど説明できそうにありません。(あえて言えば、)五感すべての自在な発散によって、未踏の境地に到達することです。それはたいへんな苦痛を伴うのですよ。そのために強くなければなりませんし、天性の詩人でなければならないのです。・・・・
・・・・<私>というのは、一人の他者です。・・・・」
このなかのヴォワイヤン(voyant)という言葉は、日本の文学者によって、様々に訳されてきた。見者、見る人、目撃者、立会人、幻視者等々。小林秀雄は、「地獄の季節」の訳者後記のなかで「千里眼」と訳している。たぶん大意としては、この、小林秀雄の訳が、いちばんランボーの言いたいニュアンスに近いのではないかと思う。見通すことができる精神。自分をも客観視できる精神。様々な思想や情念を包摂し、乗り越え、止揚した、巨大な精神。ランボーが志向した「ヴォワイヤン」とは、おおよそこんな精神をもった存在ではないのか。
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