光文社の古典新約シリーズ、ドストエフスキーの『地下室の手記』。
独白の第一部、特に最初の方は本当に読みにくくてページが進まない。要はこいつ
何が言いたいんだというのが、皆目わからないのだ。最初にわかるのは、このおっさ
ん(40というのだからおっさんでよかろう)が、やたら卑屈だということ。だがそれ以外、
こいつが何を言いたいのかもわからない。読み手をはぐらかそうとしているかのような
論理は、殺意すら覚える。だが、あるところで二項対立が生まれて、男が一方を支持
し、もう一方をひときわ憎んでいるということがわかると、訳の明快さあいまって読書の
ペースも上がってきたと記憶する。
そんな第一部が終わり続く第二章では、突如として具体的な小説が展開される。第一
部でウダウダ語っている男と同一人物だと思われる男の話だが、案の定「ヘタレ」であ
る。頭の中ではくちゃくちゃ自分に都合のいい理屈をこねくり回し、自分にはこれこれの
権利があり相手に決然とそれを訴えるつもりなのだけれど、直前になるといつもビビッて
それを断念する。しかも、その断念すら理由をこしらえウダウダウダウダ合理化するから
始末に負えない。こういうやついるんだよな、と、ついつい身の回りの事象に回収しがち
だが、待ってくれ。これはおよそ150年前に書かれた作品であり、150年後の読者に「こ
ういうやついるんだよな」と思わせてしまうところに、この作品の普遍性の一片が隠され
ていうことは、疑い得ないだろう。弱者の自分の支配欲求を、さらなる弱者で晴らすとい
う身もふたもない構造も、現代まで連綿と通ずるものがある。
解題にて失われた10章についての考察がなされるが、いかんせんロシア文学にもロシア
正教に明るくない僕には、やや荷が重すぎた。かつての“名訳”のファンは、ここまで読み
やすくなり若干「ラノベ化」した『地下室の手記』にはご立腹かもしれないが、より幅広い読
者に開かれたこの訳を、僕は評価したい。