本書は、序章だけは大震災を契機としたわが国の国家的危機をテーマにしているが、本論はすべて震災以前になされたマルクスと「資本論」をテーマとする的場昭弘と佐藤優の対論である。
的場が正統派の立場から「資本論」を価値の実体論を中心に読むのに対して、佐藤は、宇野弘蔵の価値形態論に即して、しかもそれを廣松渉流の関係主義をも摂取して独自に読みなおそうと奮闘している。たしかに経済学のプロである的場が主に発言し、佐藤は聴き役に回っている感もある。だが、それでも、佐藤によるマルクス=宇野理論の保守主義的解読はユニークで瞠目させられる。しかしそこには疑問もある。本書が強調している社会に対する商品形態の外部性論を国家・民族や自然・土地や文化・文明にまで押しひろげていくと、佐藤は、的場や柄谷が称賛し佐藤自身もこれまで評価してきたアソシエ―ショニズムと根本的に論理的な矛盾をきたすことになるのではないか、という点である。アソシエーションという自立した個人による社会契約論的組織ではなく、外部的な商品形態以前に存在する自生的・伝統的な共同体(コミュニティ)こそ、保守主義者の佐藤がほんらい評価すべきものなのではないだろうか。
じっさいこの本で佐藤は、青木孝平の名を挙げて、的場のアソシエーショニズムと青木のコミュニタリアニズムとの違いについて厳しく問いただしている。この佐藤の問いは鋭いが、的場はこの質問にまったく答えず自身のアソシエ―ショニズムを得意げに語るのみである。これに対して佐藤は攻め方を変えて、マルクス「資本論」の関係主義的な読解を徹底していくと、必ず京都哲学的な保守主義にいたらざるを得ないと述べている。京都学派の日本主義に連なるものとして西田・和辻や廣松とともに過激派の黒田寛一に高い評価を与えている。これは的場による実体主義的・進歩派左翼的なマルクスの読み方に対する最大級の痛烈な皮肉であろう。
本書において、佐藤のマルクス解読がついに柄谷や的場のアソシエ―ショニズムと決別し、むしろ保守主義的な共同体主義(コミュニタリアニズム)へと接近しつつあることを強く実感した。以前に雑誌「情況」の論文でも、佐藤は青木によるコミュニタリアン的なマルクス理解を評価していてやや奇異に感じていたが、本書を読んでこの点が納得できた。佐藤優は、宇野の形態主義と廣松の関係主義に基づくかぎり、「資本論」は保守主義的な著作としても読みうるし、マルクスと宇野による市場経済の外部性批判は共同体主義への展望を開くのが本道なのだ主張しているように感じた。