外交の交渉過程と成果について必ずしも正確に国民に伝えられるわけではない。例えば、1956年の「日ソ共同宣言」は「歯舞諸島と色丹島」を平和条約締結後に「返還する」ことを約束した文書と理解されている。しかし、「共同宣言9条」の文言はあくまで「引き渡し」であると著者は指摘する。「返還」であれば、元々の所有者に「不法に奪った者」が「返還する」ことになるが、「引き渡し」という価値中立的な表現であれば、国内向けには何とでも言える。つまり、「返還交渉」の要諦は相手の面子も配慮して実現可能性の高いことを様々な交渉力を駆使して進めることである。著者は、言葉だけの「四島一括返還」は欺瞞だという。具体的に「引き渡し」を可能にする交渉でない限り、単なるアリバイ作りか問題を解決せずビジネスに利用するに過ぎないと厳しく指摘する。
本書の内容は2007.11〜2011.11にかけて「サピオ」に連載されたものである。その内容は「見逃された重大なシグナル」「プーチン王朝の野望」「暴走する官僚たち」「インテリジェンス後進国の惨状」「揺らぐ国家の根幹」という五つの章に整理されている。
著者は、外交官の地位を失っても(つまり、「機密」と称する文書に接しなくても)、基本的に「公開情報」だけで日本外交の現在をリアルタイムで分析・検証ができることを証明しているように見える。
著者は、ロシアから発された「シグナル」が見逃され、むざむざと領土問題解決が遅れていくことに怒りと苛立ちを隠せない。この「ロシアからのシグナル」に警戒的な分析があることは事実である。ソビエト・ロシアは、日露戦争敗戦後、日本との交渉において誠実であったことはほとんどないからだ。領土交渉も、1990年代からの約10年間以外に進展の可能性があると一般国民が感じたときはない。「ロシア・狡猾な熊」がまた何を企んでいるのかと思う日本人の感覚は特殊なものではない。軍事力しか信じないロシアが、ダマンスキー島を中国に投げ与えたように、日本に領土を簡単に「引き渡す」訳ではないだろう。しかし、そもそも国境交渉は「シジフォスの神話」のような絶え間ない努力の中で訪れる一瞬のチャンスを待ち続けることだ。その意味では、「シグナルを正確に理解せよ」という著者の指摘は基本的に正しい。
また、著者が指摘するように、問題の解決を不可能にしている要因が外務省内に存在することは間違いないように思われる。
そもそも「北方領土問題」の根幹には、冷戦下において日ソの連携を分断するためのアメリカの狡知があったことは、広く知られたことである。冷戦終結後、2001年、森政権下で進められた領土返還交渉が頓挫した背景には、著者の指摘によれば、外務省の「アメリカンスクール」の動きがある。(本書337ページ以下の叙述参照)アメリカの意向を後生大事にして日本外交を貶めることを外務官僚がやるのは、水面下で行われるアメリカの日本内政への干渉を保身と人事を大事とする官僚が恐れるからである。外務省だけではない、財務省、経済産業省の高官が、アメリカと中国の干渉を懼れ、水面下で行う作為・不作為は、日本の国益を損ねている。
著者の戦いは、当分、終わらないことだろう。