巻末に掲げられた多くの参考文献をダイジェストし、解説に資す図を適宜からめてコンパクトにまとめた本。よくできていることは確かだ。全体を俯瞰するには、多くの読者にとって便利な本らしく、よく売れているようだ。
だが、読者としては、心しなければならないことがあるように思った。
問題が問題なだけに、しっかりした問題意識をもって臨まないと、知識の羅列、情報に収集に終わり、何となくわかったつもりになってしまうのがアブナイところ。
どういう問題意識のもとでこの本が成り立っているのか?
という視点でこの本を見ると、非常に漠然としている。だから、読者はよほど問題意識をもって臨まないと、通読しても、木を見て森を見ない結果に終わりかねない、というのは老婆心だろうか…?
伊勢神宮と出雲大社の違いが対比され強調される(とくに出雲固有の事情についての蘊蓄が傾けられ、充実している。一方、伊勢についてはやや手薄の感あり)。
それはそれでよいのだが、「伊勢神宮と出雲大社」と銘打つからには、違いや個別事情の羅列に終始するのではなく、両者のあいだの関係こそ、もっとも大事なテーマになるはず。しかしながら、その点がいまいち曖昧模糊というか、隔靴掻痒の感が残った。
伊勢神宮と出雲大社のどっちが先に出来たのか、という問題すら本書から抜け落ちているのである(この点に関して光文社新書『神社霊場 ルーツをめぐる』は、出雲大社が先だったと明確に打ち出している)。本書では出雲大社を建てたのは、『古事記』のいうままに大和の勢力としているようだが、大事なポイントのわりに、このへんの記述も明確とはいい難い。
だれが(どのような主体が)、いつ、どのような目的で、というような重要なポイントについては論点を明確にしてほしかったと思う。
肝腎カナメの問題について素通りし(問題意識の欠如か?)、終章を「ヤマト政権から見た伊勢神宮と出雲大社」に割くも実質わずか4ページと底が浅く、とにかく伊勢神宮と出雲大社は違いますねという話に終始しているあたり、出雲の個別情報は充実しているだけに、逆に食い足りないように思った。ないものねだりだろうか…。
【追記】34頁につぎのようにあります。「『日本書紀』によれば、前92(崇神6)年、アマテラス大神の魂である八咫鏡を皇居から大和国笠縫邑に遷座させて…」
つい、そう思いがちですが、『日本書紀』の、アマテラスが皇居から笠縫邑に遷座する話には八咫鏡は出てきません。出てくるのは、本書で異説として紹介されている『倭姫命世記』のほうだったかと思います。
【追記2(2011.3.12)】上記の問題について、最近ちくま新書から出た武澤秀一『伊勢神宮の謎を解く〜アマテラスと天皇の誕生』が真正面から論じており、大変興味深い。