『性の倫理学』を読んだ上司に「聡明にして冷静な問いを持った著作家」と薦められたのがきっかけで、伏見氏の著書を手に取り『ゲイという経験』『魔女の息子』や『さびしさの授業』など温かくも理知的な視点に感心していました。
『魔女の息子』の方は読後は著者の力に「さすが」感。
この『団地の女学生』は(自分の年齢が現在三十代半ばなのも相まってか)
「自分の精神が一旦ゼロにされて考えさせられる感」。でしょうか。
「あの人は私のことを誤解している」とか「本当の私を解っていない」というセリフ自体は、日常頻繁に聞かれるけれど、ではどこまで知れば「正解」でどこまで取り違えれば「誤解」なのだろうか。しかも正解も誤解もその人が辿ってきた年月によって、または日によっても変わってしまうし、人間は基本的に他人に対しては容姿や言葉や年齢、所属している場所などによって「単純で悪意のない決め付け」でもって日常を生きてるんだな。
理屈で解ってはいながら「高齢者」とか「若者」とか、ついつい現時点でくくって日頃話をしているけれども、生まれながらの高齢者もいなければ永久に若者でいる人間もいない。実は「それぞれの年代の空気」をように吸ってきて、各々が単純に言えない経験をしてきている、「グラデーションの集まり」が人間なのかもしれない。
…などということを何だか不思議と考えながら引き込まれて読みました。
誰もが思い当たる、「こんなさもしいことを考えている自分を他人に知られたら」という恐れから、存在はするけれどもなかったことにしてしまいたい種類の精神が主人公によってはっきり開陳され、そこのところが読者の精神を「気負うなよ」「気取るなよ」と一旦ゼロゲージにしてくれる気がします。
(語り手でない)脇役が主人公になるサイドストーリーはよくあるパターンで陳腐な発想ですが、歌手の視点で捉えなおすとどう物語は展開するのだろうと、素朴な興味が湧きました。
読んでいることや話の筋を忘れてもどうということはなく章ごと・段落ごとに栞を挟んで日記のように読めるものと、とにかく最後までたどり着かないと居ても立ってもいられなくなるものがあった時に、これは明らかに後者。早く結末を知りたいなどのお手軽な欲望を喚起する形ではなく「大事に物語につきあいたくなる」感触です。
読書中や読後感に、安心感でも反復感でもなく、味わったことのなかった感覚が呼び起こされるのが「新ジャンルである」としたら、”「新ジャンルコメディ」というような不思議な読み心地”いうのはそういうことか。と膝を打つ一品、お薦めです。