本書は三島由紀夫との親近者であった筆者の三島回想録である。知られざる三島由紀夫が、筆者との遣り取りの再現で明らかにされる。
三島由紀夫はよく「俗人」という言葉を作品内で軽蔑的に用いたように思うが、本書を読む限りにおいて、寧ろ三島こそが「俗人」に他ならぬのではないか、と私は思う。幅広い交流関係、豪華絢爛なパーティーないし演劇、西洋風の豪邸、など、「憂国」を訴えたにも拘わらず、自らが欧米的社交文化に依存してしまってはいまいか。様々な役割を演じざるを得ないことへの苦悩は、『鏡子の家』にて小説化されているらしいが、三島は戦後のアメリカ化により、日本の旧来的わびさび文化が消滅し、現代にも繋がる合理主義的表層的繋がりの文化へと転換してしまうこと、結局はそこに自分も当て嵌められてしまっていることに関して、自嘲的に自らを「憂い」たのではあるまいか。本書においては、筆者と三島のゲイバーでの出会い、切腹ごっこ、演劇『鹿鳴館』、映画『憂国』、『午後の曳航』の結末が本来はさらに七ページ付け加えられる予定であったことなど、色々な筆者と三島の交流が伝えられている。そういった肉体としての普段の三島が本当の三島なのか、それとも小説に書き表わされた三島が本当の三島なのか、私は後者を選びたいと思う。