第1篇「純粋経験」、2篇「実在」、3篇「善」、4篇「宗教」の構成。著者自身は、初めて読む人は、1篇は後回しにせよ、と言っているが、内容のユニークさから行けば、断然1篇で、これを読まずして、本書は何の意味もないといっても過言ではない。今になると、形は整っていても、「実在」や、諸学説を「アカデミックに」検討した「善」の篇は、私には、面白みは乏しかった。尤も、今の時代に、本書を読んで、斬新さ、新鮮さを得ようとするのは、なかなか、読み手の問題意識次第で、難しいと思う。本書全体のモティーフになる「純粋経験」も、ジェイムズの「pure experience」にほぼ同じで、これに、ヘーゲルの「意識の経験」「弁証法」を合わせると、いや、或いはショーペンハウアーの「表象」を考えると、西田のオリジナリティなるものは、著しく減少する。さらに言えば、ベルクソンの「持続」の影響や、徹底して「意識」から出発する構えは現象学で、この時代の西欧哲学の流行の中にすっぽり覆われてしまう。にも拘らず、独自の文体で語り展開する本書は、とても魅力的で、繰り返し読むことを飽きさせることはない。まさに、日本人が「近代」において語った最初の哲学だと思う。或る人が、西田の哲学は、「悲しみの哲学だ」と言ったことがあり、この哲学の通奏低音を、西田の「悲しみ」の感情にみているのを聞いて、自分はとても共感したことがある。体系的であることや、抽象性から普遍性を展開するなど、独創的な哲学の要素はあるにしても、尚惹き付けて止まない、その力は、実は西田の剥き出しの「感情」が、この哲学的な言説に乗って展開されているからではないか。知識のモザイクではなく、詩や小説のように、何かを「詠っている」ためだろう。そう意味で、廣松渉を含めても、なお初めての「哲学者」だったと思う。最初は、岩波版で通読し、メッセージを感じたら、解説のある本書で読むのが良いかもしれない。純粋経験を唯一の実体とし、他の諸概念は、そこからの派生で、相対的な差異しかないとする西田哲学は、その文体と相俟って、案外に、分析的には捉えにくい。丁寧で懇切な解説は、大いに役立つと思う。