オートポイエース途上という趣のある内容となっておりその後の「生態空間」、「二重作動」に繋がっていく。
生きていること、自ずと行為できること、わかる以前にわかること(無分別智)とそれらについての知(分別智)との間には大きなギャップがある。
自転車の乗り方についてどのように説明しても乗れるようにはならない。それは、体験的世界(行為の世界)に属している。
感覚も受動的認知能力とは言えない。認知以前に感知できるものと感知できないものを区別する。後者については見て、知る。とは異なる仕方(行為)でわかる。
この領域を「環境」と呼ぶ。われわれは、生きて行為する際に既にそれに関わってしまっている。
重力も、同様である。脳性麻痺で上体を維持出来ない子どもがいる。支えて上体を起こし自分で体重を感じ取れるようになるだけで信じられないような微笑が出ることがある。自分の可能性を感じ取ったのである。
このことを「環境」の自己への浸透と呼んでも、自然の響きあいと呼んでも言葉の剰余が大き過ぎてしまう。だが、重力を物理学的に表記しただけでは体験している重力の極僅かを翳め取るだけであろう。
イメージも見て、知る。とは異なる仕方(行為)でわかる。一歳以下の幼児の微笑み返しのように。
イメージの働きとは、経験そのものを形成したり経験を固有の仕方で組織したり身体行為の手掛かりとなったりすることにある。身体動作と共にあるイメージは、行為のための予期であり継続の手掛かりとなるものである。これを「遂行的イメージ」とよぶ。代表的なものが顔であり身体である。
また、自転車乗り、逆上がりが出来るようになるときにも身体イメージが働いている。経験が形成される際には不可分に関与しているが一旦、習熟するとそれは消滅してしまう。
イメージは、記憶の組織化についても関与していると予想される。
イメージは何らかの輪郭を持たなければならない。常にこのものという具体性を持たなければならない。
大脳皮質は脳の広範な領域で起きたことをうまく汲取れないように出来上がっている。言語表記にも限界がある。
行為という運動のみが発見の場所となり続ける。そこには、質の異なるものの同時進行(二重作動)が作動している。どのような行為であれ二重に自ら作動する。そのことが自己産出(新しい組織化)となる。