読み始める前、もしかするとこの本は、スラヴォイ・ジジェクが『暴力』で厳しく批判した「まやかしの切迫感」を煽るものではないか、という予想を抱いた。率直に認めるが、その予想の半分は外れていた。
確かに「あなたが行動することが大事だ」という行動への切迫を著者は随所で強調しているが、単純な善意や情熱だけで人身売買問題を解決することはできず、それに技術が伴わなくてはならないことも注意深く指摘する。その証拠に、各章で反人身売買活動家の具体的な取り組みを紹介し、また終章では反人身売買運動の、単発的なものではない、司法機関や民間団体との協働を視野に入れた、包括的な取り組みを紹介している。
とはいえ、本書の書き方は実に巧妙である。人身売買の被害を物語風に叙述した後に、問題解決に取り組む運動家の有効な取り組みや人身売買の統計的データが記述され、また被害者の物語が来る、というように異なる形式の話が交互に続く。このやり方は、読者の不安を煽り、「何かしなければ」という切迫をより強く感じさせるのに有効である。更に巻末には人身売買解決に尽力している機関名が掲載されている。しかし、まずは冷静になろう。この種の事柄は、半端な正義感や同情心で関わってよい事柄ではない。それは著者も指摘するところだ。
しかしながら、私はずっと冷静だったわけではない。ここに記された多くの人身売買の実態に対して、実際私は強い憤りを何度も感じた。何度も頁を繰る手が止まった。
そのように、本書には切迫感を煽って、思考を鈍磨させる、根本的に反理論的な姿勢が備わっている。その点は読み始める前に予想した通りである。著者は「もはや議論すべき時ではない。行動すべき時だ」と盛んに強調する。しかし、「口先だけでなく行為で示せ」という古い格言は、最低限の常識に照らしても最も馬鹿げている。勿論、行為で示すべきところを口先ですませることも多いが、語ったり考えたりするのを避けるために行動に走ることもある。この反理論的な姿勢は無視できない。この偽りの切迫感に対抗して参照してみたくなるのは、マルクスに『資本論』を書くように促した一因が、19世紀イギリスの児童労働に対する惻隠の情であったことである。本書にもある子供が労働力として消耗品に近い扱いを受けるということは、彼の時代にもあった。しかし、マルクスが活動よりも理論構築に時間を割いたことは重要なことを示唆している。
更に、著者は「人身売買のために戦っている」という「大義」の故か、その語り口はいささか押しつけがましい。また、本書を読み終わる頃には、あまりに多くの女性と子供が世界のそこかしこ(もちろん日本でも)で虐げられていることに、読者は暗澹たる思いになるだろう。だから、それを正面から見てはならない。忌わしいものに魅せられるあまり、何を見ているのかわからなくなるからだ。更にどれほど精緻なデータに裏付けられた主張がなされていようとも、道徳的な脅し(あなたの着ている服も、奴隷にされた工場労働者の手になるものかもしれない。あなたはそれを傍観していてよいのか)に屈してはならない。
そこでなすべきことは、怒りをコントロールして、思考する冷徹な決意に変換することだ。すなわち真に根源的に思考し、このような暴力が横行する社会とは一体何かと問わなければならない。「今すぐ行動すれば問題解決は遠くない」という強迫は一種のイデオロギーだ。むしろ、反時代的なふるまいだが、一歩引いて問題を考えることが必要なのだ。そして、俚諺の「まず隗より始めよ」を想起すべきだろう。おそらくそれに気付いたからこそ、著者は終章で「スマートな活動家主義」を提示しているのだ。
本書には様々な人身売買業者が登場するが、彼等はわかりやすい悪人面をしていない。仕事を欲しがる人の弱みにつけこんで性奴隷への道を歩ませる「隣人」もいれば、自分自身への献金皿に金を載せるために幼い少年たちを言葉巧みにザンビアから誘拐してくる「牧師」もいる(聖職者の不祥事には今更驚かないが、これは日本の教会にとって対岸の火事ではない)。このような人身売買の徴候を見抜くためには「目」が必要だ。そのいくらかを本書は教えてくれる。
「ガンダムOO」の主人公刹那・F・セイエイは、かつて少年兵で、本書3章に出てくるLRAに似たゲリラの一員だった。「神」のために人を殺す。その過酷な歩みの中、「この世界に神はいない」と叫ぶ。クリスチャンの私も、本書を読みながら幾度となくそういう思いに駆られた。しかし、刹那が諦めなかったように、本書の告げる現実を前にして私も諦めたくない。読後、そう思った。訳文はとても読みやすい。