矢吹駆シリーズ、今回のテーマは精神分析=ラカンです。ラカンはジャック・シャブロルという名前で出てきます。描写されるその風貌や思想の内容、経歴、家族構成まで本物とそっくりで、無理に偽名にしなくてもそのままラカンでいいじゃないかとさえ思ったくらいです。
全体的に非常に濃厚な内容で分量も多く、推理小説ファンにとって十分に満足できる内容だと思います。犯人探しやトリック暴きについては、少々複雑でペダンチックな印象を受けますが、それがそもそもこのシリーズの特徴ですので難点とは思いませんでした。
紹介されるラカン思想の解釈は、その批判の部分も含めて極めて穏当なもので、逆にいえばとりわけの卓見もありません。しかし精神分析的思考に吸血鬼的思考を対置し、さらにそれによって導き出される思想構造の全体に批判を加える、というアイデアには脱帽しました。
作品の雰囲気ですが、傑作「哲学者の密室」のようなスケール感こそありませんが、哀愁と憂鬱とに満ちた独特のムードにたっぷり酔えます。私はどこか懐かしい「昭和のパリ」にタイムスリップしたような、不思議な気分になりました。
一読して疑問に思ったことがあります。ふつうラカン思想のル・レエルは「現実界」と訳されています。しかし作中ではあえて「物質界」となっています。ここだけ変更することにさほどの意味は感じられません。まあそれはそれでいいのですが、カケルの台詞で定訳の「現実界」となっている箇所があり、統一がとれていません。また細かいことですが、792頁の「不穏」は「不安」の誤植ではないでしょうか。