出版社/著者からの内容紹介
異郷にいる息子・傅聡(フーツォン)への忘我の愛を綴った父・傅雷(フーレイ)の書簡集。現代中国で20年以上にわたりロングセラーとなっている『傅雷家書』の邦訳版である。傅聡はショパンコンクールで東洋人初の入賞を果たしたピアニスト。傅雷はヨーロッパ文化に精通し、波乱の中国現代史を歩んだ知識人。
内容(「BOOK」データベースより)
息子・傳聡(フーツォン)ショパンコンクールで東洋人初の入賞を果たしたピアニスト。父・傳雷(フーレイ)ヨーロッパ文化に精通し波乱の中国現代史を歩んだ知識人。現代中国で20年にわたりロングセラーとなっている『傳雷家書』の邦訳版。
内容(「MARC」データベースより)
芸術・音楽を論じ、生活の細かな面まで、子を想う愛の深さ…。現代中国で20年以上のロングセラーとなっている「傅雷家書」の抄訳。異郷にいる息子への忘我の愛を綴った書簡集。
出版社からのコメント
中国で刊行されたのは1981年。しかし、その内容は少しも古びることなく、普遍的なものに満ちている。親子の関係について考えている人、また広く文化芸術に関心をもっているすべての人にお勧めしたい。
著者からのコメント
著者ではないが、この手紙の受取手であるピアニスト・傅聡氏から日本の読者向けのメッセージをちょうだいしたので、紹介する。「中国と日本は文化の上で、長い間にわたり深い関係があります。父は儒家の弟子ですが、日本にも同じ儒教の根がありますから、きっと日本の読者に共鳴してもらえる部分が多いと思います。
ただし父の儒教はとても理想化されたもので、父は儒教の最も閉鎖的なところを取り除き、西洋の人文精神(ヒューマニズム)でそれに替えようとしました。つまり東洋と西洋の最も良いところを合わせてよりよい文化を作ろうとしたのです。
『傅雷家書』に書かれているのは文学・芸術や幅広い文化の問題であって、読む時にことさら私と父の関係にこだわる必要はありません。あれらの手紙が意味しているものは、もっと高い次元のことなのです。
父の手紙は公開されることを前提に書かれたものではないかとよく言われますが、決してそうではありません。晩年父は政治的な事情からとても孤独であり、私のことを友達のように見なしていました。それであのように、あらゆることについて率直に語ってくれたのです。手紙の中にも、「息子が友達になるということ、こんな幸せに勝るものがこの世にあるでしょうか!」というくだりがありますね(訳者注:1954年1月30日晩の手紙、本書40頁)。私はこれこそ、『傅雷家書』の本質を最もよく表した部分だと思っています。」
ただし父の儒教はとても理想化されたもので、父は儒教の最も閉鎖的なところを取り除き、西洋の人文精神(ヒューマニズム)でそれに替えようとしました。つまり東洋と西洋の最も良いところを合わせてよりよい文化を作ろうとしたのです。
『傅雷家書』に書かれているのは文学・芸術や幅広い文化の問題であって、読む時にことさら私と父の関係にこだわる必要はありません。あれらの手紙が意味しているものは、もっと高い次元のことなのです。
父の手紙は公開されることを前提に書かれたものではないかとよく言われますが、決してそうではありません。晩年父は政治的な事情からとても孤独であり、私のことを友達のように見なしていました。それであのように、あらゆることについて率直に語ってくれたのです。手紙の中にも、「息子が友達になるということ、こんな幸せに勝るものがこの世にあるでしょうか!」というくだりがありますね(訳者注:1954年1月30日晩の手紙、本書40頁)。私はこれこそ、『傅雷家書』の本質を最もよく表した部分だと思っています。」
著者について
手紙の書き手である傅雷の紹介:1908/4/7~1966/9/3 著名なバルザックの翻訳家、外国文学研究家。上海市南匯出身。ペンネームは傅汝霖など。27年パリ大学に学ぶ。31年帰国し、上海美術専科学校で教鞭をとる。40年から外国文学の翻訳に専念。54年中国作家協会員。57年右派分子のレッテルを貼られる。上海市政務委員、作家協会上海分会理事などを歴任。66年文革初期に迫害を受け夫人とともに抗議自殺。バルザックを中心にフランス文学の翻訳紹介に主力を注ぎ、“信・達・雅”の原則にのっとり、多くの優れた翻訳作品を残した。フランス・バルザック研究協会員、書簡集『傅雷家書』や葉永烈著『傅雷一家』からは傅雷の人格と芸術的力量を知ることができる。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
榎本 泰子
1968年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。同志社大学言語文化教育研究センター助教授を経て、2004年4月より中央大学文学部助教授。著書『楽人の都・上海―近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版、1998年)でサントリー学芸賞、日本比較文学会賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1968年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。同志社大学言語文化教育研究センター助教授を経て、2004年4月より中央大学文学部助教授。著書『楽人の都・上海―近代中国における西洋音楽の受容』(研文出版、1998年)でサントリー学芸賞、日本比較文学会賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
抜粋
一九五四年一月十八日晩/十九日晩
聡。列車が動き出した時、みな涙で顔がくしゃくしゃになり、呆然とホームに立ちつくしました。長い列車ががたごととすっかり駅を出て行ってから、やっと家路につきました。駅を出る時に沈おじさん〔沈知白。音楽学者でのちに上海音楽学院民族音楽系の初代主任を務めた〕が何度も私を慰めてくれました。しかし家に帰る輪タクの上で、みな涙が止まらなくなり、敏〔傅雷の次男〕はずっと泣きじゃくっていました。昨日は一晩中よく眠れず、たびたび目が覚めました。今日の昼寝の時も、まどろんだかと思うと、またはっと覚めてしまいました。昨晩ホームで味わった気持ちは、本当に何年ぶりのことでしょうか。みぞおちがちくちく痛み、胃は重く、こんな経験は昔失恋した時だけです。今日は一日、まるで大病をしたあとのように、全く力が出ませんでした。お母さんはいつでもどこでも泣きたくなり──目はすっかり腫れておばけのよう、乾いても痛いし、やっぱり我慢できずに泣くのです。「朝から晩までにこにこしどおし」と言っただけで、お母さんはまた涙にむせび声になりません。本当に、息子よ、君は今回文字どおり「朝から晩までにこにこしどおし」でしたね! ど〓んなに別れが辛かったことか!いつも去年の正月の事を思っては、良心がうずきます。息子よ、君に辛く当たったことを、私はいつまでもすまないと思い続けるでしょう。こんな罪は、永遠に償うことはできません! これらの思いが一日中頭を離れませんでしたが、お母さんには話せませんでした。人生で一つ間違ったことをすると、良心は永久に安らぎを得ることはできないのですね!なるほど、バルザックが言ったことは正しかった。「ある罪は償うことはできても、ぬぐい去ることはできない」!(十八日晩)
昨日の晩床についてから、また君の小さかった頃を思い返しました。かわいそうに、どうして君の幼年時代は私のとこんなに似ているのでしょうね? 君が小さい頃から味わってきた挫折が、今日の成功に役立たなかったわけではないことは知っています。けれども、私は父親として、やはり多くの重大な過ちを犯してきました。これまで友人や社会に対しては、顔向けできないようなことは何一つしていないと、自分でも思います。しかし家では、君やお母さんに対して、良心に恥じるようなことをたくさんしてきました。──こういうことが、この一年ほどいつも頭に浮かびますが、ここ数日は特に頭を駆けめぐって、まるで悪夢のようです。哀れなことに、四十五歳を過ぎて、やっと父性が目覚めたのです!
今日もまだ元気が戻りません。人生の関門をくぐり抜けるのに、これで終わりということはありません。まもなく通り抜けられると思った時には、もうこの世を離れなければならないのです。この二日間の心の揺れは、たぶんこういうことでしょう──私は今ほど強く君を愛したことはない。そして最も強く愛したその時に、別れが来てしまったのです。この関門は、私にとって、またお母さんにとって今まで経験したことのない試練です。忘れないでください、お母さんの君に対する愛は、並の母性愛以上のものです。お母さんは君にそそいだ心血が最も多く、君ゆえに味わった苦労が──それはもちろん私の過ちですが──最も多く、しかも一番身にしみて辛いものだったのですから。庭師が血と涙で咲かせた花は、いずれは世に送り出されて人々が愛でるものとなります。しかし別れにあたって、手放しがたい気持ちをどうして抑えられるでしょうか。
君の辛い幼年時代は、父親としてのあり方を知らなかった私の壮年時代にそのまま重なります。幸い君は天分に恵まれていたので、どんな打撃にもくじけることはありませんでした。そのことは私の罪の一部を減らしてくれるでしょう。しかし結果は結果であり、あの頃のことはまた別の問題です。自分の過去を葬り去ろうとも、過ちまで葬ることは到底できません。ああ、息子よ、私の息子! どんなふうに抱きしめたら、私の悔恨と強い愛を示すことができるでしょうね!(十九日晩)
一九五四年一月三十日晩
愛する息子よ。行ってしまった次の日にはもう手紙が書きたくなりましたが、うるさがられると思ってやめました。けれども君を思わない日はありません。毎朝六時か七時には目が覚めます。一晩中寝返りばかり打って眠れないのは一体なぜでしょう。クリストフ〔ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』の主人公。傅雷は同書の翻訳で知られる〕の母親が一人家にいて、息子の幼い頃の姿を一つ一つ思い浮かべるように、私はお母さんと、君の二、三歳から六、七歳までの出来事をいつも思い出しています。──こういう話をしだすときりがないのですが、あまり言わずにおきましょう。君の年頃は全てが前向きで、後ろを振り向いたりはしたくないものでしょうから。君がおむつをしていた頃のこと、鼻水をたらして泣いていた頃のことをくどくど言い出せば、きっと嫌がるに違いありません。息子よ、それは私もよくわかっているし、お母さんもわかっています。けれども君についてのあらゆることが、私たちの脳裏に死ぬまで焼き付いて離れないでしょう。それは折りに触れて浮かび上がってきて、かずかずの小さな絵のように私たちを楽しませもし、悲しませもするでしょう。
本当に、君が家にいたこのひと月半は、私たちの一生で最も楽しい日々でした。この幸せを誰に感謝したらいいでしょうか。信仰を持っていなくても、今度ばかりは思わず神様に感謝したくなりました! 私が嬉しかったのは友達が一人増えたことです。息子が友達になるということ、こんな幸せに勝るものがこの世にあるでしょうか! たとえこの先どれだけ離れていようとも、少なくとも私の心は暖かいし、孤独ではありません。時代に取り残されず、ぼけもせず、君に嫌われることのないようにしようと思います。また、私が高い山の頂に立って考えたこと、眺めたことが、君たちより間違っているとは思わないでください。年を重ねた人は行く手を見渡すことができるし、はじめは私が間違っていると思ったことも、しばらくたてば、そうでもないことが、現実を通じてわかるでしょうから。
息子よ、私が君から学んだことは、おそらく君が私から得たことより多いでしょう。特にこの三年ほど、君のおかげで私は人生においてどんなに貴重な体験をしてきたでしょうか。君と生活を共にする間に、私は忍耐を学び、上手な話し方を覚え、感情を昇華することを知りました。
君が行った次の日、お母さんは泣いてばかりで、目が腫れて何日も治りませんでした。これは悲喜こもごもの涙というのでしょう。私たちは恥ずかしがらず、君に嫌われるのを恐れずに言いましょう。人間は結局のところ感情の動物です。それがたまたまあふれ出た
聡。列車が動き出した時、みな涙で顔がくしゃくしゃになり、呆然とホームに立ちつくしました。長い列車ががたごととすっかり駅を出て行ってから、やっと家路につきました。駅を出る時に沈おじさん〔沈知白。音楽学者でのちに上海音楽学院民族音楽系の初代主任を務めた〕が何度も私を慰めてくれました。しかし家に帰る輪タクの上で、みな涙が止まらなくなり、敏〔傅雷の次男〕はずっと泣きじゃくっていました。昨日は一晩中よく眠れず、たびたび目が覚めました。今日の昼寝の時も、まどろんだかと思うと、またはっと覚めてしまいました。昨晩ホームで味わった気持ちは、本当に何年ぶりのことでしょうか。みぞおちがちくちく痛み、胃は重く、こんな経験は昔失恋した時だけです。今日は一日、まるで大病をしたあとのように、全く力が出ませんでした。お母さんはいつでもどこでも泣きたくなり──目はすっかり腫れておばけのよう、乾いても痛いし、やっぱり我慢できずに泣くのです。「朝から晩までにこにこしどおし」と言っただけで、お母さんはまた涙にむせび声になりません。本当に、息子よ、君は今回文字どおり「朝から晩までにこにこしどおし」でしたね! ど〓んなに別れが辛かったことか!いつも去年の正月の事を思っては、良心がうずきます。息子よ、君に辛く当たったことを、私はいつまでもすまないと思い続けるでしょう。こんな罪は、永遠に償うことはできません! これらの思いが一日中頭を離れませんでしたが、お母さんには話せませんでした。人生で一つ間違ったことをすると、良心は永久に安らぎを得ることはできないのですね!なるほど、バルザックが言ったことは正しかった。「ある罪は償うことはできても、ぬぐい去ることはできない」!(十八日晩)
昨日の晩床についてから、また君の小さかった頃を思い返しました。かわいそうに、どうして君の幼年時代は私のとこんなに似ているのでしょうね? 君が小さい頃から味わってきた挫折が、今日の成功に役立たなかったわけではないことは知っています。けれども、私は父親として、やはり多くの重大な過ちを犯してきました。これまで友人や社会に対しては、顔向けできないようなことは何一つしていないと、自分でも思います。しかし家では、君やお母さんに対して、良心に恥じるようなことをたくさんしてきました。──こういうことが、この一年ほどいつも頭に浮かびますが、ここ数日は特に頭を駆けめぐって、まるで悪夢のようです。哀れなことに、四十五歳を過ぎて、やっと父性が目覚めたのです!
今日もまだ元気が戻りません。人生の関門をくぐり抜けるのに、これで終わりということはありません。まもなく通り抜けられると思った時には、もうこの世を離れなければならないのです。この二日間の心の揺れは、たぶんこういうことでしょう──私は今ほど強く君を愛したことはない。そして最も強く愛したその時に、別れが来てしまったのです。この関門は、私にとって、またお母さんにとって今まで経験したことのない試練です。忘れないでください、お母さんの君に対する愛は、並の母性愛以上のものです。お母さんは君にそそいだ心血が最も多く、君ゆえに味わった苦労が──それはもちろん私の過ちですが──最も多く、しかも一番身にしみて辛いものだったのですから。庭師が血と涙で咲かせた花は、いずれは世に送り出されて人々が愛でるものとなります。しかし別れにあたって、手放しがたい気持ちをどうして抑えられるでしょうか。
君の辛い幼年時代は、父親としてのあり方を知らなかった私の壮年時代にそのまま重なります。幸い君は天分に恵まれていたので、どんな打撃にもくじけることはありませんでした。そのことは私の罪の一部を減らしてくれるでしょう。しかし結果は結果であり、あの頃のことはまた別の問題です。自分の過去を葬り去ろうとも、過ちまで葬ることは到底できません。ああ、息子よ、私の息子! どんなふうに抱きしめたら、私の悔恨と強い愛を示すことができるでしょうね!(十九日晩)
一九五四年一月三十日晩
愛する息子よ。行ってしまった次の日にはもう手紙が書きたくなりましたが、うるさがられると思ってやめました。けれども君を思わない日はありません。毎朝六時か七時には目が覚めます。一晩中寝返りばかり打って眠れないのは一体なぜでしょう。クリストフ〔ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』の主人公。傅雷は同書の翻訳で知られる〕の母親が一人家にいて、息子の幼い頃の姿を一つ一つ思い浮かべるように、私はお母さんと、君の二、三歳から六、七歳までの出来事をいつも思い出しています。──こういう話をしだすときりがないのですが、あまり言わずにおきましょう。君の年頃は全てが前向きで、後ろを振り向いたりはしたくないものでしょうから。君がおむつをしていた頃のこと、鼻水をたらして泣いていた頃のことをくどくど言い出せば、きっと嫌がるに違いありません。息子よ、それは私もよくわかっているし、お母さんもわかっています。けれども君についてのあらゆることが、私たちの脳裏に死ぬまで焼き付いて離れないでしょう。それは折りに触れて浮かび上がってきて、かずかずの小さな絵のように私たちを楽しませもし、悲しませもするでしょう。
本当に、君が家にいたこのひと月半は、私たちの一生で最も楽しい日々でした。この幸せを誰に感謝したらいいでしょうか。信仰を持っていなくても、今度ばかりは思わず神様に感謝したくなりました! 私が嬉しかったのは友達が一人増えたことです。息子が友達になるということ、こんな幸せに勝るものがこの世にあるでしょうか! たとえこの先どれだけ離れていようとも、少なくとも私の心は暖かいし、孤独ではありません。時代に取り残されず、ぼけもせず、君に嫌われることのないようにしようと思います。また、私が高い山の頂に立って考えたこと、眺めたことが、君たちより間違っているとは思わないでください。年を重ねた人は行く手を見渡すことができるし、はじめは私が間違っていると思ったことも、しばらくたてば、そうでもないことが、現実を通じてわかるでしょうから。
息子よ、私が君から学んだことは、おそらく君が私から得たことより多いでしょう。特にこの三年ほど、君のおかげで私は人生においてどんなに貴重な体験をしてきたでしょうか。君と生活を共にする間に、私は忍耐を学び、上手な話し方を覚え、感情を昇華することを知りました。
君が行った次の日、お母さんは泣いてばかりで、目が腫れて何日も治りませんでした。これは悲喜こもごもの涙というのでしょう。私たちは恥ずかしがらず、君に嫌われるのを恐れずに言いましょう。人間は結局のところ感情の動物です。それがたまたまあふれ出た