たとえば新築のマンションだったとしても、
住んでいくうちに次第と壁は黄ばみ、
いつのまにか床に傷がつき、どことなく汚れやほこりがたまっていくもの。
いつまでもきれいだと思っていたのに、そんなわけはない。
目を凝らせば経年の後。
向田邦子の「思い出トランプ」に収録された話はどれも、
その「ガタ」に気づくことのようなものだ。
最近のベストセラーによくあるようなドラマティックな悪意ではないけれど、
知らず知らずのうちに身に付いた悪意がふと顔を出し、
それはじわりじわりと広がっていくシミのように、
消せるかもしれないが、そこはかとなく跡が残る。
「だらだら坂」、「男眉」や「花の名前」など、
どれもその悪意的なものが顔を出す。
「三枚肉」でもそうだ。主人公の自分だけがどうやら阻害されている。
自分の知らない妻の顔がある。「かわうそ」なんてもっと怖い。
「大根の月」はなかでもドラマティックかもしれないが、
昼の空にある月を夫婦の会話に登場させるすべ、
「りんごの皮」は話のキーをりんごではなく、その皮に託す巧さに思わずうなる。
よく、近頃の小説が半径数メートルのことしか書いていないと
批判的に言われることがあるようだが、
向田邦子の話も実はそうだと思う。
ただ、その他多くの作品と一線を画しているように思えるのは、
「私」という個をアピールするブログ的展開とは違い、
ひとりを主人公にしながらどれもその
“悪意”に私たちが“身に覚え”を感じるからなのではないか。
全集の1冊目を読んで、そう感じた。