作者の江川紹子のわかりやすい優れた筆致にぐいぐい引き込まれる。
村の住人たちのなんとしても地域共同体との輪・絆を守ろう、という意識と、警察・検察側のなんとしても犯人を挙げて迷宮入りにするまいという意識、両者の意識はまさに同舟異夢というものだが、この二つの意識が相乗作用して奥西勝を、まさにいけにえというかたちで有罪に仕立て上げていった。
読み出してすぐ印象的なのは、村の住人たちの供述が不合理に変わっていくことだ。
最初は明晰に筋が通っていた村人の証言が、何回かの警察官を交えた「話し合い」を経てあいまいな供述に変わっていく。時間も平気で3時間もずれる。最初は合理的にきちんととどめていた時間の記憶が、わかりません、忘れました、の一点張りになる。
奥西勝の供述も肝心なところで、間が抜けている。わたしが特に重視するのは次の2点だ。
1.事件前夜、準備工作で竹筒に毒を入れたときに、来客があったかどうか記憶が定かでない。
2.会場でワインのビンに毒を入れたときに、某女性会員や電線修理人がいたかどうか記憶が定かでない。
いずれの行為の最中でも周囲に人がいたかは、犯人にとって最重要な関心事だ。何人もの人間を殺そうかという恐ろしい企(たくら)みを準備しているときに、人が来たかどうか忘れるはずはない。もし周りに人がいれば、自分の行為をできるだけわからないように、十二分に気をつけながらするだろう。またそのときのびくびくした不安感は、いつまでも強く記憶に残るはずである。特にワインのビンに毒を入れたときに、見咎められたら一巻の終りだ。自分とほぼ時間を同じくして公民館に着いた女性の動きは、最大限の関心事のはずだ。それなのに奥西勝の記憶は、そのことにつき驚くほど無頓着だ。
裁判官の判断も恣意的にコロコロ変わる。「こんな『それなり』の決定で死刑台に送られるほうはたまらない」(p.305)。この本が提起している事件の矛盾点を、一つ一つ丁寧に取り上げれば、奥西勝無罪の判断にどうしても傾く。2005年の再審決定要旨に記されているごとく、「動機、準備、実行、事後の行為の全部にわたって不自然、不合理な点が多く、したがって、自白の信用性には重大な疑問がある」(p.347)。
そこを“それなりに”適当にやってしまえば、奥西勝有罪と結論付けることもできるのだろうが、牽強付会というか相当強引に且つ雑にストーリーを作らなければできないことなのである。40年という歳月を経ながら、工夫を凝らして新しい証拠を積み上げていった弁護団の努力に舌を巻くと同時に、裁判所ももっと丁寧に事件を追い、早期の解決に腰を上げるべきであると思う。