中原昌也がこんな普通の単行本を出せるほど小説をためていたのに驚いた。お金の為とはいえもう書かない、書けないという悲痛な叫びを毎回自作に折り込む戦略?のせいか、たまに出される著作をみてほっとしてしまうのだ。
そして読んでまたほっとしてしまう。相変わらずだからだ。いったい何故こんな風に安心してしまうくらい「懐かしさ」をともなうのだろう。坂口安吾が「文学のふるさと」と呼ぶようなものと通じているような気もする。
『救いがない』ということが唯一の救いである。そんな精神に通じるように中原節は懐かしさをともなう。もちろん、女性に決して人気がでないようなフレーズが多く、犯罪者の本棚にあったらワイドショーで執拗に取り上げて、あたかもゲーム脳のときのように「したり顔で」解説されてしまうような本である。
けれどそんな意匠をまとえばこそ、本質をのぞこうとするのが読む側の心境なのであって、せいぜい自意識の鏡をそこへ見ただけのことなのに、まるで政治家が行う隠ぺい工作のように中原の作品へフタをしてしまうことこそ、ワイドショー的なのだ。
読む側はいつだってマイノリティーであり続け、世間はいつだってマジョリティー志向なのだし、この二重性を瞬時に乗り換えることが日常だからといって、あたかも見えないかのように思考停止する態度こそ、想像力のない社会を作り上げている張本人ではないか。