今我が国で行われている漢方医学は、中国伝統医学に端を発するも、中国で実践される中医学とは大きな差違がある。しからば日本漢方の源流はどこに求めるべきか。本書の意図はそこに有り、我が国の「漢方」医学を独自ならしめた立役者の一人として吉益東洞(よしますとうどう)の医学思想を紹介している。一般に彼こそが日本独自の漢方医学である「古方」を確立した代表的人物と見なされているのである。しかるに、本書を一読した私の偽らざる感想としては
現在我が国で実践されている漢方医学というものと、吉益東洞が説いた「医学」(これを学と呼べるかどうかが問題となるが)はあまりに異なるものだ
と言わざるをえない。
第一に「補法」を否定している。一般に漢方では生体の気を重んじ、漢方にはこれを補う方法があることを西洋医学には無い優れた特質であるとしている。日本東洋医学会の教科書にもそう書いてある。しかし東洞は「気は天の定めであり、医者の治療の対象では無い、薬で気を補うことなど出来ない」といって補法を否定する。
一般に漢方では「陽証」「陰証」と言って、患者の体質、病態のあり方により治療を変えるのだという。変化やエネルギーに富んだ状態は陽、その反対が陰であるとする。これは中医学には無い日本漢方独特の概念である。しかるに東洞はこれも否定する。陰陽などは怪しげな仮説であって信用することは出来ないというのだ。
虚実の概念が現代の漢方とは異なる。すなわち現在日本漢方では病人の気が不足した状態を虚、有り余るのを実というのに対し、東洞は本来望ましくない外因である「邪」が存在することが実だと言っている。これは中医学における虚実の概念と同じであって現在の日本漢方とは異なる。
現在の日本漢方では古典として「傷寒論」「金匱要略」を重んじ、特に「傷寒論」における六経弁証を治療の要諦とする。しかるに東洞は六経は彼の言う「証」に於いて本質的では無いとする。
しばしば漢方では「医者は病気を治すのでは無く、人を治すのだ」という。しかるに東洞は「医者は病毒を排するのであって、人の生死は天の定めである」とする。
このように、東洞の説くところと現在我が国で実践されている漢方とはその基本的概念に於いてあまりにも差違が大きすぎる。
確かに、吉益東洞は太古以来延々と論じられてきた「陰陽五行」「気血津液」など中国伝統医学の基本概念をことごとく否定したという意味では変革者である。しかし現代日本漢方は、その東洞の流れを汲むと言いながら、彼の否定したものの多くをまた採り上げている。私はそれを非とするのでは無い。東洞流を押し通すならば、医療はあくまで「術」に他ならず、以心伝心掴むものであって、畢竟学問とはなり得ない。しかるにならばなぜ、現在の日本漢方が己の出自を東洞にありとするのか、そこが不思議である。確かに日本漢方は中国で実践される中医学、韓国の韓医学とは異なっている。しかし東洞の医術を元にしているとも言い得ない。著者は「日本漢方とは何か」を明らかにしたくて本書の執筆を思い立った由であるが、その疑問は本書によりむしろ一層深まっている。