司馬遼太郎と藤沢周平。ともに惜しまれて逝った時代小説の巨匠である。2人とも直木賞作家であるが、たとえ芥川賞であってもおかしくはない。井上靖が芥川賞なら当然かもしれない。選考委員の「面白いものはダメ」「時代小説はどうも」といった偏見が邪魔をしている。
この2人に池波正太郎を加えて御三家といった。山本周五郎を加える向きもあるが、少し時代がズレる。それぞれのスタイルで昭和末期から平成にかけて山脈のような高峰を築いた。いずれも熱狂的なファン層がある。
ファン心理とは面白いもので「ウチの先生が一番だ」と主張したい。特に著者の佐高信氏は、シロかクロか、決着をつけなくては気がすまない評論家であるから敢然と「藤沢>司馬」の本を出した。
言ってみれば中華料理とフランス料理のいずれがウマいかを議論するようなもの。立論そのものの面白さはあるが、それで結論が出るわけでもない。たしかに司馬作品は英雄史観そのものである。歴史をつくるのは飛び抜けた大天才だということにしなくては時代小説は面白くない。桶狭間の急襲には信長の決断が付き物で「実際に今川義元を討ち取った武者」が埋没してしまうのは仕方がない。唯物史観である戦後の歴史教育がサツバツと味気がないのとは好対照だ。「それは間違っている」と攻撃する佐高氏の立場もわかる。わかるけれど(イヤミを言えば)やや日教組的である。藤沢周平が「信長が嫌いだ」と言うのも趣味の問題。肯定もできるが「では、どう中世を破壊できるか」だ。
ただ司馬信者にも頂門の一針だろう。米国でもアーネスト・カンパニーといって、ヘミングウェイで食べている連中が大勢いるが、日本の司馬エピゴーネンもそれに劣らない。私も司馬ファンの1人だが、同氏の「明治の日本はすばらしいが昭和の日本はくだらない」とする司馬史観にはついていけない。日清、日露戦争、いずれも正義の戦いではない。ヒトラーのレーベンズラウムと五十歩百歩。中国、韓国の迷惑を考えたことがあるだろうか。
藤沢周平も下級武士物、市井物(『海鳴り』はいいなあ)は追随を許さないが、『密謀』のように惨憺たる失敗大作もある。それは藤沢文学をおとしめるものでは断じてない。
(東洋信託銀行顧問 神崎 倫一)
(日経ビジネス1999/9/6号 Copyright©日経BP社.All rights reserved.)
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点数が低いのは、そのために藤沢周平が担ぎだされるのは藤沢の本心ではないだろうと思うからだ。例えばこんな記述がある。『松下を「息がしやすい」会社とする司馬に対し、藤沢は直接、松下を指してではないが、あたかも松下を指したかのように、日本の会社についてこう言っている』として「私は非人間的なとも思える研修を社員におしつけて伸びるような会社は好きじゃない」という言葉を紹介している。まるで藤沢が司馬を批判する気持ちを持っていためにこう言ったかのような構成である。しかし藤沢は制度や組織の悪口は言うが人の悪口は決して言わない人であった。藤沢が利用されたようで少し不快であった。
本旨とは関係ないが、佐高は藤沢の未発表文章として、業界新聞時代の「大社義規の伝記」「甘味!!辛味」を紹介して、発表を切望している。私も声を大にしてそう言いたい。
ただし、他の書評された方が書いていたように、藤沢としては司馬的な作家は同じ「歴史小説」というジャンルでも「近くて遠いヒト」であり、迷惑に思うのではなかろうか。
人生には希望を膨らませてまい進する時期が老若男女の別なく存在するし存在すべきである。特に、社会をしらない若者には、何かの希望が見出すことを作家としてたすけることに意義もあるのではないだろうか。
司馬の歴史観は確かに浅いところもあるが、それで歴史に興味をもち、自己の人生を考えるのに役立つところも多いはずである。
私はむしろ、最近の作家(たとえば童門なんとか)のように、歴史の素材から何もはっくつせずに、その時々に売れそうな歴史人物をとりあげるような薄っぺらい作家の存在をより憂える。
藤沢と司馬を比較すれば、確かに司馬は英雄史観の人だと感じていたので、この部分に関しては共感できた。
しかし、氏が藤沢を敬愛するあまり、氏の考えに、あたかも藤沢がすべて、同意しているような論理のすり替え部分は、多少、気になるところである。
それでも、この本の大きな意味は、司馬と藤沢という偉大な山を氏と共に辿る事によって、自身の歴史観や人生観を今一度、考えざるをえないところにあるだろう。
氏の表現は時に過激で、骨太な評論だが、巻末に収録されている宮部みゆき氏との対談の方が、すんなり心に入ってきたのは、感慨深かった。
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