最近このシェークスピア『マクベス』の有名な科白をよく目にします。フィリップ・シーモア・ホフマンが完璧に演じて話題となったカポーティ未完の遺作である本書訳者あとがきにも、この科白がありました。
「マクベス」においてこの科白は魔女の価値観が人間のそれとは合致しないということを明示するものでしたが、本書においてのそれは、きらびやかな上流階級の住人(通称セレブ)たちの価値観(特に性癖)がどれだけ低俗でアブノーマルなものかを明示するものです。
この物語は未完のまま終わっているので、カポーティが本来はどのような構成を採るつもりだったのか分かりません。第1章「まだ汚れていない怪獣」と第2章「ケイト・マクロード」は、P.B.ジョーンズという主人公が、ニューヨークで自身の半生を綴った小説「叶えられた祈り」を執筆している現在と、その小説の中身(つまり過去)が並行して描かれています。その小説内における回想が自由に時間軸や場所を行き来し、登場人物も多いことから、読むのに結構骨を折りました。しかも、その時間軸の移動によって生じた空白を埋めたいとする読者の祈りは「叶えられぬまま」。
セレブのゴシップ話に終始する第3章「ラ・コート・バスク」はつまらないとしても、この「トカゲの血のように冷たい」主人公の遍歴や、彼を取り巻く取り込む変態世界が滅法面白いわけです。私の貧しい読書歴を漁ると、太宰の『人間失格』 のような退廃を味わえるといった感じでしょうか。
なのでことさら美化して描かれているケイト・マクロードの顛末がもっと欲しかった気がします。残念。