労働階級の出身だったにも拘らず、作家として成功を収めた為、ウィルソンは内世界を探求する為の自由を得た。遺憾ながら、これは例外的な出来事である。文明は、閑暇の重要性というものを完全に忘れ去っている。文明の舵取りは、耐性菌や兵器の所為だけでなく働きすぎで人は死ぬのだと言う事実を直視すべきだ。
仕事とは業務をこなす事でしかないのだと言う下劣な思い込みや、人を鬱病や自殺に追いやる病的な仕事中毒の責任の所在は明らかである。それは、仕事さえしていれば創造的であるか否かは不問に附さねばならないとする世間全体の二流の伝統である。この慣習が意味するのは、馬鹿げた成果主義に己の人生を代弁させたい能無しどもが、真の有能さ、即ち中心性を保持する事で誰もが発揮し得る他を「益す」能力についての重要な知見に絶えずあいまいさを混入してきた、という事実である。
ウィルソンは、人がもっと生きる事の意義を感じられる為に何をすればよいかを考え続けてきた。彼が出した答えは内世界の探求である。この世界を未踏の荒野呼ばわりするのは、正当な科学を自称している大部分の連中の不見識だ。彼らはジャネやウィリアム・ジェイムス、そしてホワイトヘッドといったそびえ立つ断崖絶壁のごとき大先達の業績にさえ十分な敬意を払えない。
文明の問題の解決策としてここでウィルソンが提出してみせるのは、「各人がくつろいで静かに横たわり、身体の中で活力の泉が湧く音に耳を澄ます事」である。
我々日本人がこの考えを聞いてびっくりしないのは、伝統の内にこれと類似した思考法が組み込まれているからである。風鈴、氷売り、虫の声。芭蕉は蝉の声が岩に染み入るのを感じたし、家持は夕暮れ時の風が庭の群竹をゆらす「かそけき」音を聞いて詩境に入った。