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最も参考になったカスタマーレビュー
11 人中、11人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
宗教社会学の古典,
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レビュー対象商品: 古代ユダヤ教 (上) (岩波文庫) (文庫)
ウェーバーはその生涯で数多くの宗教社会学の成果を残しました。本作はその代表格といってもいいでしょう。世界でも特異な位置にいるユダヤ人。彼らが如何にいまのユダヤ社会を形成していったのか、本作では丁寧に追っています。一段落が長い(原文を意識したものだそうです)のが難点ですが、その点を除けば文章は読みやすく宗教学・宗教社会学の分野に興味のない方でも読み通せると思います。 本作を通してウェーバーの偉大さを体感してみてください。
23 人中、14人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 2.0
現代の聖書学の基準には合わないだろうし、分析に恣意的な点があるように思う。,
By ぼぼ (日本) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 古代ユダヤ教 (上) (岩波文庫) (文庫)
ヴェーバーの古典中の古典だが、あまりに彼を神聖化するのはおかしいと思う。彼自身述べているように、彼は旧約の専門家ではないし、当時のレベルでも旧約の知識に専門的に新しい見識を付加することを意図するものではない。 引用文献を丹念に見れば分かるように1870年-1900年代(特に1900年代)のヴェーバーの母国語である殆どドイツ語だけ の文献が基礎となっている。例外は「死者の書」の仏語訳が一点と、英語の著作が一点だけ。 19世紀後半から20世紀初頭にかけてのドイツ学の隆盛は言うまでもないが、それにしても、資料が偏りすぎては居ないだろうか。 1920年に出版されているので、彼にとっては最新の母国語資料だけを集めたことになる。 日本人の学者で日本語資料だけで論文を書くものを信用できるだろうか。 約90年から100年前の学説の業績であるので、現代の旧約聖書の学者に詳細に批判的に 現代の聖書学の基準で訳注や説明をつけてもらいたいところである。 訳者である内田芳明氏は、経済学部所属の社会思想史研究者という位置づけであり、 決して専門の旧約聖書学者ではない。旧約学者との踏み込んだ協力があっても良かったのではないか。 一例を上げてみると、「ヤーウェ」と競合及び混同されしたとされる「バール神」に関する、ウェーバーの分析は少なくとも現在の知識では眉唾ものであると思う。ウェーバーの時代にはまだウガリトの発掘はされてはおらず、ウガリト神話との比較研究は存在しなかった。我々は後世の考古学的・文献学的分析の成果を知ったいわば神のような立場で ヴェーバー理論を検証、答え合わせできるわけであるが間違った思い込みだけで断定してることが分かる。 また、読んでいて気になるのは、「ユダヤ人はパーリア民族である」という有名な定義に見られるように、しばしば、ヴェーバーは別の文化圏固有の概念を ヘブル語の概念に躊躇なく適用する。ラテン語の法iusと神法fasの区別などのローマ法固有の概念をユダヤ教の分析に つかったりされるといつの時代のどの段階のことかとクラクラする。古典ギリシャ語固有の概念もよく何の説明もなくユダヤ教に適用される。 南インドの不可触カーストであるパーリアと古代オリエント共通の外国人寄留者がヘブル文化上の一形態として認識されたゲーリームはその 「不可触性」や「穢れ」の概念において民族学的にもまったく違うものであろう。 あまりにも大雑把な分析的同一化とアナクロニズムとの批判はかわせないのではないだろうか。 彼の宗教社会学は、社会学的、つまり、彼の考えるところの科学的であることを前提としている。 社会学的分析というのは要するに、「テキストを歴史的構成物と見なし、仮定された社会階層の利害の偏向を通じて理解すること」である。 それ自体は歴史的テキストへの正当で科学的な「テキスト批判」の取り組みであろう。 ただし、ヴェーバーの場合は彼が仮定する「社会層」所与の事実として決め打ちで語られておりかかる社会層が本当に存在したのか、 そのような社会層分けが本当に妥当なのか一切の説明や理由付けがない。せめて何らかの説明はあるべきである。 ヴェーバーは非常に構成力に優れた大学者であるが、抽象概念によって現実を再構成分析するに当たって、抽象概念を所与のものとして語り、 現実の分析をそれに合わせていると思われるような箇所がしばしば見受けられるのである。 ヴェーバーはベドウィンと、小畜飼育者、農民、都市市民層に分類するが、ゲーリーム「寄留民」としてのイスラエルと小家畜飼育者と同視する傾向にある。少家畜飼育者というのは、家畜が小さいのではなく、小規模の遊牧民であるという意味であろう。 私にはまず東部の遊牧民であるベドウィンと、彼によれば「平和的な」小家畜飼育者と本質を区別する意味が不明というかよく分からない。 ユダヤ教は優れてベドウィン的宗教であると思われるからである。 小規模であろうが、遊牧民は遊牧民でありその本質は変わらない。また、旧約に明示されるアブラハムなどのイスラエルの族長の財産の規模を見ていると「小規模の家畜飼育者」とはとても言い難い。小家畜飼育者が「平和的」であるのは、小さくて力を持たないからであり、力を持った途端に遊牧民は略奪と戦争を繰り広げる。 イスラエルの血生臭い戦争の歴史と戦争神であるヤハウェがそれを証左している。ゲーリームの特徴はむしろ峻烈な砂漠の民である ベドウィンの特徴的な一局面である。ゆえに、ヴェーバーが「平和的小畜飼育者」と特に「遊牧民=ベドウィン」と区別して社会階層を分けることに首をかしげざるをえない。完全な遊牧だけのベドウィンなどというものは存在せず、放牧をしない場合、隊を組んで通商をやるか、略奪や侵略をやるか、砂漠で採集生活をやるかは自由であり、全て遊牧民の生活の様々な局面であると理解したほうが現実に沿うと思われる。 残念なことに、「小畜飼育者」という概念は「ユダヤ人はパーリア民族である」というヴェーバーのゲーリーム論の中核にある。 また、遊牧民に関しては、大小の規模で社会層を分けるウェーバーだが、「農民」に関しては大小の規模を分けていないのはおかしい。 なぜなら聖書に出てくる農業収穫物では、ナツメヤシやいちじく、オリーブ、小麦などが、代表的なものであるが、これらは、ローマで言うと、 大土地所有制度latifundiumになじむ作物であり、大規模農民と農奴の社会層分類が必要となってくるはずだからである。 それなのだが、ヴェーバーの農民層のイメージはより水の豊かな地域であるヨーロッパでの小規模自立農民層のイメージと大差ないように思われる。 債務奴隷を語る場合、日本の小規模自立水飲み小作的なイメージがついてまわるのであるが、砂漠やステップ地域で、 そのような前提が通用するか怪しい。当時の気候と経済前提の分析は必要ではないだろうか。 それには当時の気象条件や生産構造を発掘された考古学的資料から検証する必要はがあるのであるがヴェーバーは考古学に従事したことはない。 また、社会層の対立は前提とされてるだが、ヴェーバーの時代はまだ60年代以降によく行われた古典古代の具体的な経済モデルの(限界はあるが)なにがしかの数量的計算による経済分析の試みは一切行われていない。前提にされているのは、想像による社会層とその摩擦である。空想的経済学であり空想的社会学である。 歴史的な古典や教養として読むのはいいが、「懐疑的に慎重に判断すべき要素が」詰まってる本だと思う。 悪い言い方をすれば、現代の水準では似非ウィッセンシャフトリッヒ(似非学問的・科学的)な本である。 ヴェーバーの魅力はその気宇壮大な理論構成力だが、抽象化する分、決め打ちというか決め付けの前提が多く、読者が十分な知識を持ってない場合判断のしようがなく受け入れるしか無いのである。一番強い理論構成力に関わる部分で、雄々しく儒者臭いが、一方で、説明や裏打ちがなく弱い。 訳も読みやすいし読んで楽しいので本自体は一読の価値はあると思うが、きつい言い方をすれば、 大塚史学のようにエピゴーネン的古典として受け入れるのは良心上つらい。 フィールドワークもなく、発掘調査もなく、数量モデルによる検証もない。つまり、実証性がない。 よくよく考えてみると、根底にあるのはむしろ社会構造に関する観念論である。
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