内容紹介
1945年8月9日、長崎の浦上は原子野となった。
原子雲の下にあって生き残ったわずかの子どもたちが、どんな目にあい、どんな風に感じたかを知りたい、との世の人々の望みにこたえるために、この手記はまとめられた。
「原子爆弾はひどかとバイ。痛かとバイ。もう、やめまっせ!」戦争はいやだ!の一言が子どもたちの切実な叫びである。
著者について
明治41年(1908年)2月3日島根県松江市にて、医師であった父寛、母ツネの長男として誕生。幼少青年期を三刀屋町(現・雲南市)ですごす。
昭和3年(1928年)4月松江中学を経て、長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学。
昭和6年(1931年)浦上天主堂近くの森山家に下宿する。後の妻、森山緑と出会う。森山家はカトリックであったためカトリックに興味を持ち始める。
昭和7年(1932年)4月大学卒業後、助手として、放射線物理療法の研究に取り組む。
昭和8年(1933年)幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、満州事変に出征。
昭和9年(1934年)2月帰還。大学の研修室助手に復帰。6月洗礼を受ける。カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名、パウロ)。無料診断・無療奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。
8月森山緑と結婚。一男二女をもうける。
昭和12年(1937年)長崎医科大学講師に就任。日中戦争に第五師団衛生隊隊長として出征。
昭和15年(1940年)長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任。
昭和20年(1945年)
6月 長年の放射線研究による被爆で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。
8月9日 爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診療室にて被爆。右側頭動脈切断という負傷を負いながらも布を頭に巻くのみで、被災者の救護に尽くす。
昭和21年(1946年)1月28日長崎医科大学教授に就任。7月長崎駅近くで倒れる。以来、病床に伏す。
昭和23年(1948年)永井が療養を行うための庵が完成。「己のごとく人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付けられる。この庵で反原爆を訴える作品を数々生み出す。
昭和24年(1949年)長崎市名誉市民の称号を受ける。
昭和25年(1950年)ローマ教皇特使としてフルステンベルク大司教が見舞いに訪れる。
昭和26年(1951年)5月1日逝去 享年43才。