読中、読後の最初の印象は作品の良し悪しというよりも、単独行者(以下「アラインゲンガー」)は小説かノンフィクションかどちらなのか判断に迷うということだ。アラインゲンガーの読者の多くは、その前に、新田次郎氏の「孤高の人」を読んでいると思う。まず、孤高の人とアラインゲンガーの加藤像があまりにもかけ離れていることに強い違和感を持ちながら読んだ。読み始めて、最初に覚える加藤像の違いは、その性格である。孤高の人の加藤文太郎は人との交流を大変苦手とし、わずかなコミュニケーションも図れないのに比べて、アラインゲンガーの加藤はまったくそうではなく、登山会の仲間との交流も多く、それほど特別に、孤立した人物には見えない。
アラインゲンガーの加藤像は、孤高の人のそれとはまったく正反対のものであり、作者がことさらに、孤高の人の加藤氏や吉田氏のイメージを覆すことに躍起となっている印象が強く残る。アラインゲンガーが2010年10月号の雑誌「山と渓谷」にも紹介されているが、孤高の人での吉田氏のイメージが実際とかけ離れているため、そのイメージを変えることが吉田氏を知る人にとってはどうしても必要であったとされている。
吉田氏のイメージがこれだけ違うのはいいとして、それにしても、では、なぜ新田氏が描いた吉田氏が(作中は宮村氏)、アラインゲンガーの吉田氏とはこれだけ異なる描写となっているのか、その理由、説明はどこにもない。
このように、孤高の人とアラインゲンガーの加藤氏や吉田氏の人物像があまりにも違うため、どちらが真実なのかわからないというのが正直な印象だ。
あくまでも、両方とも小説というならば、さまざまな作者の創作があるはずだ。両作者とも、山岳ノンフィクションの傑作、沢木耕太郎の「凍」のように、主人公から詳細のインタビューをしているわけでなく、両氏とも参考となる文献として、加藤氏の「単独行」をあげており、情報の多くをそれから取っていると思われる。にかかわらず、アラインゲンガーの加藤像は、孤高の人とはまったく逆であるため、アラインゲンガーがノンフィクションのように感じてしまうのである。
また、孤高の人では、加藤の社会人としての成長の過程や日本が全体主義へと傾倒していく社会情勢が描かれている。また、加藤氏や宮村氏(吉田氏のモデル)のそばには女性も登場し、小説として読むのに、非常に充実した物語構成になっており、読むものを飽きさせない。それに比べてアラインゲンガーはほぼすべて登山一色で物語が進行する。
いずれにしても、アラインゲンガーも山岳小説として読めば、読み応えは十分である。