上田氏執筆の『自己の現象学――十牛図を手引きとして』は、自己という「現象」を解釈するにあたって、十牛図をあくまで手引きとして論考したものである。
現象学的方法論を自己という現象に適用して解明するだけでは、はなはだ抽象すぎて訳のわからないものになってしまうところ、十牛図を援用することで具体的に自己の本質へと踏み込むことができるというところがミソになっている。したがって自己のアプリオリな論理的形式性の追究であって、我執や煩悩の解明はまた別次元の問題である。
自己の頽落的な在り方から真の自己を発見するその理路を十牛図の修行の歩みに引き寄せて解釈するのだが、自己というあまりに身近に在りすぎて、というか自己を思惟するのもまた自己であるというパラドクスを抱えている存在は、ありふれているからこそ捉えること、言葉にすることが難しいが、言わんとしていることは至って単純、明解である。ハイデガーのあの執拗な、存在への思考のように。
マイスター・エックハルトの神と禅との一致点を見出しつつ、すれ違うあたりの面白さ。ブーバーの我と汝のキリスト教的限界。ニーチェの「神は死んだ」も、仏教的ニヒリズムに近いが、絶対肯定には行かない。その他アンゲールス・ジレジウスの詩の解釈や多大な影響を受けているだろう西田幾多郎への言及など、示唆に富んだ思考の深みに、ついつい評者は嵌まってしまった。
ジレジウスの「薔薇は咲くがゆえに咲く」と禅に言う「花は自ら紅」との対比解釈がされていて、前者は神と人間の「思議」がすで前提されているが、後者では絶対的無(空相、己の存在すら無にしたところ)から出てきた(現成してきた)ものだとなる。西欧のキリスト教を背景とした思考の枠組みでは仏教的、禅的「自然」の「おのずから」や「みずから」というもののあり方に達することができないわけである。