英米系倫理学は学者の占有物にしておくのはもったいないほど面白い分野だが、これまで、日本語で読める適当な入門書がなかった。
加藤尚武「現代倫理学入門」や
川本隆史「現代倫理学の冒険」といった本があるにはあったが、いずれも幅広いトピックを一冊に凝縮しようとするあまり、各項目の説明が舌足らずになっているきらいがあった。この点本書は、各トピックをきちんと噛み砕いて解説してある。主題の抽象性ゆえ一読了解とまではいかないが、「知らない人に分からせよう」という著者の意欲・工夫が随所に感じられる。
それでいて、扱っているトピックは、実はけっこう幅広い。認知主義VS非認知主義といったメタ倫理学の問題から、功利主義VS義務論といった規範倫理学の問題、ロールズやノージックに代表される政治哲学、それに社会的選択論や厚生経済学といった隣接分野の議論まで、入門書として必要なトピックはほぼ網羅している。これだけ幅広いトピックを扱いつつスケッチーな印象を与えないのは、著者独特の親しみやすい語り口の妙だろうか。
他方本書は、近時欧米で活発に議論されている動物権利論の入門書という側面も持っている。上に挙げたような倫理学の抽象的論点と、動物実験の是非、肉食の是非といった動物権利論の具体的論点とをいったりきたりすることで、倫理学の方法であるところの「往復的均衡法」を読者に体感してもらおう、というのが本書の企図である。一部にやや我田引水的な説明も見られるものの、倫理学の抽象理論を動物権利論の論点への適用を通じて具体的に考察するという試み自体は、概ね成功しているように思う。
ただ、気になる点がひとつだけ。日本では、動物実験の廃止や肉食の廃絶が、現実社会のシリアスな議題になり得ると考える人は少ないと思う(実は私自身、本書を読んだ今でも、これらの論点は数多ある社会問題の中ではきわめて優先順位の低いものだとの印象をぬぐい去れない)。こうした中で、入門書の応用分野として動物権利論にフォーカスすることは、初学者に与える教育的影響という観点から見た場合、倫理学の問いの切実さに疑念を与える結果とならないだろうか。倫理学の議論に知的パズルとしての魅力があるのは確かだが、他方で、倫理学が現実離れした学者の観念遊戯であるとの印象を読者に与えるのは、著者の本意ではあるまい。こうした側面への何らかの配慮があれば、もっとよかったのに、と思う。
とはいえ、総合的に見て、日本語で読める倫理学入門書としては現状では本書がベストであるとの認識に変わりはない。誰かから倫理学の適当な入門書はないか聞かれたら、今後は迷わず本書を薦めることにしたい。