楽茶碗は茶碗ではない。禅の器「応量器」である。という結論でした。
著者は、専門家ではないので裏付けがとれなくても自由な発想で考察を進めることができ、そのことが真実を言い当てる可能性を秘めていると言っていますが、中身はかなり論理的な構成で、裏付けに基づいて「疑問」と「考察」が繰り返されます。
茶碗は、利休と織部は迫力があるが、遠州の「綺麗さび」は迫力がないと言っていますが、逆にこの「綺麗さび」は、現在世界中を席巻している日本の「かわいい」にも通じるもので、唐好みから始まった茶の湯が徐々に熟成し、遠州でついに日本の本来的な美意識に立ち返ったという捉え方もできると思います。
私は、むしろ遠州びいきです。