下巻では、主観的に根拠を持つ反省的判断力として、目的論的判断力を取り上げ、考察する。上巻では同じ反省的判断力に含まれる美学的判断力と崇高を志向する仕組みが、自然の因果論的連関から離脱して自由意志を育てていき、実践理性へと近づいていく過程を記述したのに対し、下巻では、自然の仕組みとはたらきを理論的に解明しようとする過程から、実践理性へと繋がる道のりが見出されていく様子を明らかにする。その道のりは、世界の客観的根拠は証明できないが確信を持つことができる、という第一批判・第二批判で示された要旨に則った、その確信の内実を深く省察する内容になっている。
自然の探究を進めるに当たって、また進めていくにつれて、自然に何らかの目的を想定することが探究者自身にとって必要になること、そんな自然の目的は機械的自然法則と有機的自然法則の二つの様相で想定できること、このことがまず最初に示され、ここから議論が始まっていく。
機械的自然法則から試みられる目的設定は客観的にも主観的にも不完全に至るほかないこと、有機的自然法則から試みられる目的設定、万物の「究極原因」の設定が主観的には了解し得るものであることが、前半に幾つかの視点で示される。そんな究極原因の主観的な確信から、根源的な存在者である「神」の存在、さらに「心の不死」も主観的に確信を得られることが、後半で示される。そして、この巻でも上巻と同じく、論考を可能にしているのは自然の因果的連関から離れて生きることのできる人間の「自由」が可能だ、ということであることは度々言及されている。
読み進めていくと、この巻での話題は、通常宗教の分野で取り上げられていることに気づく。カントがここで行っているのは、ひとが神に至る道を、宗教的な語彙をほとんど使わずに思索しようという試みで、具体的には、神学の前に道徳的目的論を立てることで神を想起する道筋を作り上げている。
結果的には、理論理性が実践理性に至る道は、上巻で示された美学的判断力を経由するルートと、下巻で示された目的論的判断力を経由するルートの二つが示されたことになる。そのどちらも主観的な確信に基づいた反省的判断力であること、人間が自分のからだで捉えなおした確からしさに基づくことは、単なる思弁では終わらない思索、「哲学」がどんなものであるのかを教えてくれるものだと思う。
後世の哲学・人文科学・社会科学の基準になったことがよくわかる三部作だった。ここを理解しておけば他の著作の理解が容易になる効果があるのではないか。事実、三大批判書の内容を踏まえてヘーゲルの著作を読んでみると、カントが残した業績をベースにして議論を展開していることは一目瞭然に分かった。決して第二批判・第三批判が付け足しではなく、三大批判書全体が後世の哲学の問題領域そのものをセットしたこと、無意味な「整理整頓」がお好きなわけではなかったことが、ヘーゲルの仕事を通じて理解できる。しかしなにしろ、三大批判書を辿ってみることは最高に面白い体験だった。