自分は哲学は分析哲学しか知らないがその経験で言うと、特に哲学書の場合、議論の最初の一歩に警戒してし過ぎることはない。どういう言葉と方向で問題提起するか、そこで致命的に外していれば、あとはいくら理屈を精緻に詰めても時間の無駄である。
この本の第3章がいい例である。「知識の必要十分条件」あるいは「知識命題の真理条件」という問題設定自体に一見不審はない。この方向の知識概念の標準的分析に従うと(ゲティア論文と関係なく)例えば「私は日本の首都が名古屋であることを知っていない」という命題は真である。これを「とりあえず正しいだろ」と思うか、「何か知識概念のコアを外している」と思うかが、大きな分かれ目である。
ムーアのパラドックス(Pであるが私はPと信じない)で示された言語機能の本質は、サール・クリプキ・ミリカンなど多くの哲学者に理解を共有されているが、しかしまだ身に染みて理解していない分析哲学者が多いのも実情である。確かに今風にいえば「発語内行為の誠実性条件違反」で決着済みで、パラドックスと称するのも大げさに思えるかもしれない。しかし「意味論と語用論、命題と力は別問題」程度で片付ける代償は大きい。
本書で分析哲学の定石的問題設定と展開を知っておくのは無駄ではないし、初めて経験する(特に頭のいい)人には新鮮に感じられて不思議はない。だから別に本書を否定はしない。
ちなみにこの著者は、「理屈を語る」というより「言語や世界のある側面に注意を向ける」という方法の人だったウィトゲンシュタインは嫌いなようである。また(間違いなく)自分の問題意識が中心でその範囲内で分析哲学を利用するに過ぎない野矢茂樹とは対照的である。