著者はあとがきで、本書の問題点を二つ挙げている。
(1)「集団としての仏教僧団を現実の活動面からのみ眺めてみたが、それはそれで明確な一貫性をもって論じることができ、シャカムニの教団とはこうだ、と断定することが可能な領域だ。」(p.292)が、それは仏教理解のための単なる土台に過ぎない。「修行して何を悟るのか」という難解な問題に答えていないという問題点が一つ目である。これは「法」に関する問題である。
(2)「乞食という生き方は、仏教僧団に反社会的な活動を許さない」(p.293)が、時として外部社会の通念が仏教の基本理念と背反する事態が起こる。「律蔵」を実践しない日本仏教が戦争と関わった一端を『禅と戦争』(ブライアン・A・ヴィクトリア著)に垣間見ることができる。そうした問題に答えていないという問題点が二つ目である。これは「僧」に関する問題である。
これに関して思い出すのは、『インド仏教の再生 ― 少年留学僧サンガラトナの歩み』(堀沢祖門著)の「宗教とは何か」で論じられた“ブッダの最後の教えがなぜ『自灯明、法灯明』なのか、なぜ『仏灯明、法灯明』でないのか?そして、『三宝(仏・法・僧)帰依』すら、ブッダの教えを逸脱しているのではないか?”という指摘である。
釈尊の最後の言葉に従うならば、「仏」と「僧(あるいは僧伽)」には拘泥せず、「自己(四沙門果を目指す自分)」と「法(四沙門果になるための修行方法)」を重視するのが釈尊亡き後の仏教とすべきなのかも知れない。