『時間と他者』には感動した。彼の本はぜひ読んでおくべきだと思っていくつか購入したうちの一つだが、こちらはあまりいいとは思わなかった。
ハイデガーやサルトルの主著は、書き出しの二十ページほどは素晴らしく先の展開に胸が高鳴るが、読み進めていくに従い首をかしげたくなる。私にとって大陸系の哲学はそういうものだったが、はっきり言ってこの著作もその通りだった。
分析哲学には(もちろん私だけがそう思うのかもしれないが)何か根本的に間違ったところがある。大雑把にいえば、世界は論理的な構造をしているのだから正しい論理を追ってさえいれば世界の真理にたどり着けるという間違った信念があるように見える。いっぽう大陸系の哲学は論理に道筋の一々が感情移入によってのみ説得力を持たされているのではないか。彼らの哲学の難解さは、論理のたどりにくさというよりも感情的な納得のしにくさではなかろうか。
私はレヴィナスの著作に接したとき、冒頭でこの双方の欠点を止揚するような素晴らしい記述にいつも出会う(『時間と他者』はその「冒頭の部分」だけで出来上がったような本だった)。しかしそれは決まって失望感に変わる。なんというべきか、彼の哲学は彼の人間観だとか政治に対する見方だとか正義観だとか、たとえ正しいとしても偏見と呼ぶべきであるものを極めて精緻な理屈として述べているだけに思える。私にはそれらは偽善的な理論展開と映る(偽善というのはよいか悪いかということではなく、感情の比喩としての論理の在り方を指す)。彼に感情的に同意できるものはそれを論理的な裏付けのある言説として読めるが、同意できない者は難解な言葉としか感じられない、という仕組みなのではなかろうか(もちろんこの批判が相当粗雑な言い方なのは分かっているつもりだ)。
彼を理解できたなどとうぬぼれるつもりはない。もしもう一度読んだら評価をかなり変える可能性はある。そして、全体としてはともかく、啓発される部分もたくさんあることは確かだとも思う。しかし、もし彼の本を読むつもりなら、もっとヴォリュームの少ないものを、私は勧めたい。これは、最後でいいのではないか。