ともすると骨董めいた過去の遺物のように思われがちな仏教哲学が、
実は現代の最先端を行く物理学や言語哲学、生態学などを先取りしていた、という論じ方自体は、
どこかで見たような光景、という以上の感慨をもたらすものではなかった。
気になったのは、「仏教とは実にモダンではないか」という言い方が何度も繰り返されることだ。
言わずもがなのことだが、モダン=かっこいい・洒落ている、という価値判断自体が、
そもそも近代以降の進歩主義史観に沿ったものでしかなく、
少なくとも仏教本来の考え方の中にそのような視点はないはずなのだが、
本書では仏教の時間論についても論じられているにもかかわらず、
そのような言い方が無批判に採用されてしまうということ自体、
現代という時代において仏教哲学を骨身のレベルで理解し、
実際の生活に活かしていくことの難しさを、逆説的に示しているように感じた。
(まあ、著者からすればこの言い方も方便なのだろうが、 それはそれとしてひと言断りがほしかった。)
また、これはかなり個人的な感想になるが、
たとえば数や時空の本質について自分の頭で徹底的に考え抜いた結果、
これしかないという形でまったく独自の世界観にたどりついた数学者や物理学者が語る
確信に満ちた言葉の数々に比べて、仏教学者の哲学理解というものが、
しょせんは過去の賢哲の言葉を受け売りしているだけの、
どこかあやふやで底の浅いものに思えてならないことも多い。
では著者が言うように修行体験があればいいのかとなると、そうとも限らないはずで、
数学者や物理学者(のほとんど)はとくに瞑想などをしているわけではないだろうし、
結局、原典読解の語学力にキャパの大半を取られる仏教学という学問の在り方自体に、
自由な思考を妨げる構造的な問題でもあるのかもしれないとしても、
ニーチェなどはもともと古典文献学者だったのだから、それも言い訳にはならない。
中沢新一のような偽者ではない、真の天才って出現しないものだろうか。