これは聖武の母宮子、安媛姫、阿部内親王(のちの称徳女帝)ら、「男の子に生まれなかった女の子の系譜」を描いている。
この作品は宮子の辛く苦しい出産で始まる。「こんな苦しみを与えるために、父母は笑顔で後宮に送り出したのか」それが「女に生まれたことは、なんと理不尽であることか」と宮子を世捨て人へ導いた。宮子が「理不尽」を感じるに至ったのは、「男の子のように育てられた女の子」としての感受性を有していたからにほかならない。
安媛姫は、野心家の父母の期待を一身に背負って意気揚々と入内するが、皮肉なことに宮子と違って目的を果たすことができない。
「女の子」であるがゆえに、「立身出世」以外の生物学的な要求を満たさなければならないのだ。健康で賢い安媛姫が、男の子と同じように「立身出世」を期待されたならどうにでもできただろうが、「これ」ばっかりは思うようにならない。その「理不尽」さ。
宮子の存在によって、「女の役割に愛想をつかした」女性と、「理不尽な女の役割」に必死にとりくむ光明子の姿が対比され、問題点が強調される。
そして、安媛姫の子、阿部内親王は、ついに祖母三千代も母安媛姫も叔母宮子も成し得なかった「目的」を果たす。(著者は阿部内親王を「女として浮かれる母を冷ややかな目で見る」潔癖症の女の子として描いている。)
これは、現代に例えるなら、「祖母は社長になりそうな男性に自分の夢を賭けて」「母は社長と結婚して自らも副社長で大株主となり」「娘はついに自分が社長になった」という女三代記なのである。
問題は、光明子となった安媛姫が「あいだ」にはさまっていることなのだ。ここが一番不安定な位置なのである。つまり「女としての幸せ」も諦めきれない、ということで、それが胡人との擬似恋愛の悲劇的な結末を呼んだ。こう見ていくと、おそらくは、現代に生きる女性をほのめかして描かれたのであろう。秀作だ。