本書を手に取ると、ズシリと重く、読むとそれは、書かれている事態の重さと著者の想い(怒り、鎮魂、共感、無念、遺された者への応援歌)が積もった重さであった。重いのだが、一気に読まされる。
証券マン・教師・トラック運転手・ファミレス店長・自動車工場・設計技師・銀行員・・・、そこには「名ばかり店長」「派遣や請負の非正規社員から管理職社員まで」の葬列があり、「いじめ」とパワハラがあり、「弱い者が夕暮れ さらに弱い者を叩く」という風景があり、それを奨励して「統治」する日本の労働現場の「構造的ひずみ」が在る。成果主義・ノルマ・強制された「自発性」・提案と反省文の強要・連帯責任・度外れたサービス残業・全面屈服を前提に成る人事考課・派遣請負化・・・つまりは積年の労使共謀による合作たる「共助風土の解体」が在る。
葬列に立ち会う者のごとき著者が、込み上げる感情に筆を奪われまいと抑制・苦闘した跡が、行間のそこここに溢れているのだが、その感受性に裏打ちされた筆致は、さながら作家が書いた「物語」の様相を呈してもいる。が、情緒の物語が、涙を流したところで終わるのなら、これはそこから始まるのだ、直接性の世界が・・・。
読者には、否応無く、本書が言う通りの「強制された自発性」に追われた昨日・今日の職場があり、「名ばかりの管理職」の激務に満ちた明日の仕事がある。人生の大きな部分を占有している労働の「場」、出口のないその「場」を変えてゆく方策を掴まなければ、「燃え尽きるまで働き」「斃れる」のは「ひと事」ではなく、明日の自身かもしれないという追い詰められた者の臨場感がある。
著者が言う、『形成されるべき労働者像とはおそらく、価値基準としては、自分にとってかけがえのないなにかに執着する「個人主義」を護持しながら、生活を守る方途としては、競争の中の個人的成果よりは社会保障の充実や労働運動の強化を重視する「集団主義」による――そうした生きざまの人間像であろう。』との言葉から、この書が「鎮魂の書」「告発の書」であればこその「応援歌」に聞こえ、こう思った。
労働→生産→誘導された購買消費生活→社会的位置→横並び願い→労働→生産→・・・この強固な環状エンドレスの輪が現に在る限り、加えて企業がそして多くの場合労働組合までもが、その輪を打ち固める側に在る限り、ぼくらは、環状エンドレスの輪に沿った場に居続けるのではなく、ぼくら自身が、その輪の身近かな切断可能な箇所を「エイヤッ」と「断ち切る」のだと。輪は必ず綻び始めるのだと。ぼくらのそうした挑みこそが、勤労と生活を覆う自身の価値観総体の変更=「集団主義」への出発点だと。