初版は1935年で1967年版は第七刷。
問題は第三章の離接的偶然で、運命論として扱はれるが実は「無」の論である。
− 運命は必然的ヘイマルメネーであり偶然的なテュケ幸運やアウトマトンではない。
〔各様相の時間的性格〕
可能性の未来的時間性格=Vorlaufen。必然性の過去的時間性格 = ト・ティ・エーン・エイナイ、アナムネシス。
に対し偶然性は現在。『可能は可能性によつて現實と成る。現實は必然へ展開する。さうして一般に可能が現實面へ出遇ふ場合が広義の偶然である。』 それは哲学の始めである驚異タウマゼインである。265頁
〔有と無〕
偶然は無に近い存在。離接的(選言的)肯定はその裏面に離接的否定を有つてゐる。
絶対者が「必然―偶然者」であることは絶対者が絶対有であると共に絶対無であることを語つてゐる。313頁
『偶然性は有と無の境界線に危く立脚する極限的存在にほかならない。』314
可能性と必然性は實在性の次元にあつて濃度の違ひ(大小對当)でしかない。
偶然性は虚無性の次元にあつて不可能性と濃度の違ひ。
必然性を追ふものは無を自覚すること少なく、可能性のみ追求する者は缺如として無を知る場合が多い。
偶然性の官能を持つものは無を直感する。314『偶然は無の可能を意味する』315
可能性は「非現實性」によつて不可能性に結ばれてゐるが、「無」は却つて不可能性と偶然性を『包消』してゐる。317 − 九鬼が高橋里美と同じ『包消』といふ言葉を使用してるのは面白い。
言明的assertologisch 或は確然的apodiktischな命題を 問題的problematischにするのが離接的disjunctive判断。320
『離接的偶然の核心的意味は「無いことの可能」としての「無いことの必然」へ近迫すること。偶然性は不可能性の無の性格を帯びた現實である。さうして現在における驚異の情緒は實存にとつて運命を通告する。
なほ可能的離接肢の全體は勝義カタ・エクソメンにおいて形而上学的絶対者を意味し・・・「必然―偶然者」として解明される。
また絶対者と有限者を繋ぐものが運命である限り、運命もまた「必然―偶然者」の性格を擔つて実存の中核を震撼する』322f
定言的偶然の核心的意味は微表差異exiguumによる「個物および個々の事象」、
仮説的偶然は「一つの系列と他の系列の邂逅」、
離接的偶然は「無いことの可能」。322
これらすべてにの偶然の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の措定。
必然性とは同一性つまり一者の様相であり、偶然性は一者と他者の二元性の邂逅Zusammentreffen(間主観性)。324 無いことの可能は選択に基づく二元を予想。325
偶然性はアリストテレスにとつても学的認識の限界を形成。しかしこの限界は実存に対して端初Urzufall。326 − これは勿論アリストテレスからアヴィセンナ経由トマス・アクイナスに引き継がれた、存在(現実存在existentia)はaccident偶然による、或は神esseの対象を存在させる行為actus essendiによるといふ哲学史の復習。
経験に整合と統一を與へる理論的體系の根源的意味は他者の偶然性を捉へてその具体性において一者の同一性へ同化・内面化する。
汝の我への具體的内面的同一化であり、偶然を満喫した宇宙論でなくてはならない。329