著者はコロンビア大学の社会学の教授で、ネットワーク理論を専門にしている。
英語の原題に首をかしげる方もいるだろうが、これは偶然の連鎖で引き起こされたような結果でも、人間は後知恵で解釈する強い性向があるために、必然的な因果の結果だったと考えてしまう(つまりそうなるのは自明だったと思ってしまう)認知上のバイアスのことを意味している。
そしてこのような認知上のバイアスによって出来上がった「常識的な知恵」が、私達の日常の選択から政府の政策まで支配している結果、様々な不毛で非合理的な選択が繰り返されると説く。しかもこうしたバイアイは歴史学や経済学などの繰り返し実験することが困難、あるいは不可能な研究領域を対象にした学問の世界にも根強く見られると指摘する。
そうした視点から様々な問題が論じられているが、例えば社会学者が「ミクロ−マクロ問題」と呼ぶ視点はとても普遍的な問題を扱っている。これは例えば社会学や経済学の分野では、個人のミクロ的な選択から実社会のマクロ的な現象をどう導きだして理解できるかという問題であり、また原子から分子、分子からアミノ酸やたんぱく質、タンパク質から生命をどう説明できるかという問題だ。
筆者は、ミクロの階層からマクロの階層を直接的に説明するのは不可能であり、それは階層をひとつ上がる毎にミクロの層には還元し切れない「創発現象」が起こるからだと説く。こうした複雑系の厄介な問題は予測可能性という期待を打ち壊してしまう。(p73)ところが人間はそれでも後知恵解釈で起こった出来事に対して偽りの因果連鎖を想定し、そうした偽りの因果連鎖やそれに基づく教訓が「常識」として横行すると論じる。
例えば、ミクロ経済学では方法論的個人主義の立場が支配的で、「代表的個人」「代表的企業」というものを想定することでモデルを構築する。そうやって作られる「経済学者の数理モデルは、経済の途方もないほどの複雑さを全く体現しようとしない」(p75)と批判する。 こうしたアプローチは複雑性を排除することで、「マクロ経済学のマクロたらしめている核心を無視している」
この点は経済学分野からは反論があろうが、私はむしろ著者に共感してしまう。マクロ経済学のミクロ的な基礎を構築するというのが、例えばネオケインジアンのやってきたことであるが、私にはバブルの形成やその崩壊など重要な創発現象を(試みてはいるが)リアルに説明できていないと感じているからだ。
それに続いて紹介される「暴動モデル」も興味深い。これは個人が他人の選択に影響を受けるという前提で、100人の集団を想定し、ある人は他人の選択の影響を最も影響を受けやすく、ひとりが暴動を起こすと自分も暴動に参加する。次のひとは2人暴動を起こすと自分も暴動に参加する。最後の人は99人が暴動を起こすまで自分は参加しない、というように異なる影響度を設定する。
この場合は、ひとりが暴動すると連鎖が起こり、100人全員が暴動する。ところが、ひとりだけ暴動感染度を変えて、2人が暴動を起こすと暴動に参加するひとを除き、代わりに3人が暴動を起こすと暴動に参加する人に置き換えるとどうなるか(3人暴動で同調する人が2人になったわけだ)? 2人の暴動が起こっても、それで暴動に参加する人が抜けているので、暴動は2人どまりでおしまいになる。
この2つの集団構成の相違は、たった100分の1に過ぎないが、最初のひとりの暴動というインパクトに対して集団全体が暴動する結果と、2名しか暴動しないという全く極端に異なった結果がもたらされるわけだ。
これは極めて単純化した例だが、プレーヤーが他のプレーヤーの行動の影響を受けるという条件を加えると、システム(集団)の変化は僅かな変化で著しく異なる結果に至る場合が生じ、要するに事実上予測不能になる、ということだ。標準的なミクロ経済モデルがプレーヤーの独立した意思決定を想定したがるわけも、良くわかる。暴動をバブルに置き換えると、経済的な含意は興味深い。同じような金融緩和の下でも、それが大バブルに至る場合と、そうでない場合の違いは実は極めてわずかであり、事実上予測も制御も不可能であるかもしれないのだ(断定を避けて「かもしれない」と言っておきたい)。