福澤諭吉が「学問のすすめ」で、何でもお上に依存して、独立にことを興す人が少ないこと、政府の法規制や補助金に依存している自分の国を憂えていて、私の独立といって学校でも事業でも私立でやるのが本来だといっている。今もあまり変わっていないのかもしれない。
この本はなかなかオモシロイ好書なのだが、読解力がないのかちゃんと読んでないのか、どうも誤解してる人がいるみたいなので筆者に代わって反論してみたい。
まず「車もこないのに赤信号で待っている人はバカである」とは、「ルールは元々機能・便宜のために作られたものであって、状況によっては守らなくてもいい方が安全だったり都合がいいこともある。信号を無視して突っ込んでくる車もあるだろう。状況によって臨機応変に行動しよう。自分自身の経験と判断の方を大切にしよう。」といった意味であることが読んでいればわかる。
「飲酒運転や高スピードで運転することをルール違反とする考えは唾棄すべきである」については、ただ煩わしいからルールをなくせといっているのではない。「正しいやり方は、飲酒して、自己責任の事故を起こしたらつかまえて刑務所に入れて免許は二度とやらないというもの」と、新しいルールが提案されている。そうなったら誰も無茶な運転はしなくなるだろう、というわけだ。実際、「私は交通ルールを破った方がよいと言っているのではない」と強引に固執しているわけではないことが伝わるように書いている。
「悪事を犯して俺さまは悪党である、自由人である、と言われるとむしろ著者が哀れ」と書いてる人、ちゃんと読みましたか?
後半についてもなかなか斬新すぎるアイディアが続いて笑えるが、これは、社会を構成する大部分の人々が相当程度に賢く、自己責任能力があることを前提としている。その前提でいくなら一応、スジは通っている。実際「国民がそれ相応に賢ければ」というコトバが何度も登場する。でもまあ、ぶっちゃけ現状では無理かなあとも思う。筆者も「私の構想は見果てぬ夢なのかもしれないが、一歩でもそれに近づくことは可能だと信じたい」と半ばあきらめ気味である。それについては、フリードリヒ・ハイエクのこの言葉を引用したい。
『経済理論家または政治哲学者の主要な仕事は、今日政治上では不可能であることが政治上で可能になるように、世論に影響を与えることにあるべきであり、それゆえに私の提案が現在においては実行不能であるという反対意見は、私がこれらの提案を発展させるのに少しも妨げとはならない。』