タイでは坊さんは女性に触れてもいけないのに、妻帯すら認められる日本から見ると、タイ仏教はもはや「仏教らしき宗教」にしか見えない。同じ宗教がどうしてこれほど違って見えるのか。これこそ「比較文化」の格好の対象じゃないかと、英仏独梵漢語と超人的に博覧強記な著者はいう。もともとサンスクリットで書かれた仏典が日本に来るまでに、梵文漢訳というステップを踏んだことで、誤記、誤解、意図的な読み替えが多く生まれた。そのため、人間的なドラマだった仏典が、無味乾燥な音の羅列になってしまった。著者は仏典をサンスクリットから直接和文に訳して、「かんじーざいぼーさつ」「はんにゃーはらーみたー」が何を意味するのか明らかにする。
梵文漢訳の際、中国に存在しない概念は意訳ではなく音を漢字の当て字にした。そのため、「智慧の完成」という梵文が「般若波羅蜜」というおどろおどろしい文字列になってしまった。ちなみに悪魔の「魔」や獅子の「獅」は仏典漢訳の際に作られた漢字だそうだ。漢訳仏典は中国人が聞けばなんとなく意味は理解できるが、日本への伝来時、日本語に訳されず、漢文を直輸入してしまったため、仏典は全く無味乾燥な文字列になってしまった。何だか分からないけど、とにかくありがたい高尚な教えを説いているんだろう、と一般的日本人は理解し今に至っているが、元の文を理解できないために、「道楽」「説教」など、もともと道を極めようという肯定的な仏教漢語が、日本語として定着する過程で、マイナスの響きを持ってしまったことを著者は嘆く。
日本ではかなり教条的なイメージのある仏教の本質が、ドラマティックかつ論理性、合理性に貫かれていたことを本書は強調している。王子という身分を捨て、男女、貴賤問わず修行者を受け入れたブッダの革新的思想を伝える文書が、日本へ至るまでに、国家というスポンサーの下で仏教知識を独占するという既得権益を持つ僧侶たちによって、何だか分からないけど守るべき経文として権威づけに使われた。私は、仏教や宗教哲学について、ほとんど知見を持たないが、単純にこうまで違った読み方になってしまう、というのは面白い。