3.11後、まったく本など読みたくなくなったが、しばらくしてにわかに「読み直し」たくなったのがこの新書。ツイッターでは「(安全と言いまくるかたちでの)原発容認派」と「原発反対派」の対立が鮮明になり、「日本に希望派」と「日本に絶望派」の温度差が日ごと高まるなか、皆が納得する“正義”や“善”などはなく、それをオープンに議論し続けることで正義や善について考え続けること、それのみが不正義や悪に振れないための在り方である、というわかりにくくてどっちつかずの議論が至極まっとうなものに思えてきたからだ。アーレントは近代化がもたらした大衆民主主義が全体主義の温床になったと考える。政治に参加する権利、発言の自由を与えられ、社会福祉の消費者となった市民は、結局は己の私生活にしか関心のない政治の傍観者、つまり大衆となった。大衆は「世界観政党」の提示するわかりやすい物語を求める。そこに全体主義のつけいる隙ができる。個人の無関心と無責任の総体が国家をゆるがすような危機をもたらす巨悪の正体なのだ。
東京電力、原子力安全保安院の記者会見を繰り返し見ながら、『イェルサレムのアイヒマン』のことを思わずにはいられなかった。東電や官邸を悪者扱いすることはたやすい。だがむなしい。「彼(アイヒマン)が、ホロコーストという『悪』の象徴となったのは、与えられた職務を淡々とこなす、陳腐な役人であったからに他ならなない」からである。日本中の人間が未曾有の原発事故のわが身に及ぼす影響について怯えるなか、「ただちに健康に影響はない」「その件は確認中」「可能性はないとはいえない」を繰り返すロボットのような役人たちと、その影に隠れて姿も見せない彼らの組織の責任者、そして政府・東電は「事実を隠蔽している」と騒ぎ立てるマスコミと何を信じていいかわからなくなって立ちすくむ市民たち。もはや「われわれみんなのためには何が最善か」を冷静に議論できるような状態ではない。
自己保身と自己利益をいったん離れなければ、公共善について真剣に考えることはできないのだとアーレントは主張する。しかしそれは反面、自己保身と自己利益を思い切り語れる空間や集団が片方にある、ということともつながる……といったわかりにくくてどっちつかずのアーレントの立場を、現代日本の文脈に沿ってわかりやすく解説したアーレント入門書。わかりにくさこそが可能性であり救いなのだという思想は、3.11以後の日本にとって貴重なものだと思う。