長いレビューを読みたくないという人もいると思うので,とりあえず結論を先に述べておきます.レビュアーがどうしてこういう結論に至ったかもう少し詳しく知りたいという(奇特な)方はその先までどうぞ.
4) まとめ
訳文については好みもあると思うが,私にはまあまあ明晰なほうだと思われる.議論は総合的かつ緻密で,この分野に興味のある読者にとっては非常に価値の高い内容である.ただし,原著にあった参考文献一覧を省いたのは許し難い暴挙であり,これによってこの訳書の科学的・学術的価値は大きく損なわれている.英語が苦にならない人は原著を買う「べき」である.この非常に大きな「欠陥」よりも内容面での圧倒的な価値のほうが高いと考え,☆ 4 つの評価とさせていただいた.
0) はじめに
まず,この本をレビューする前に,レビュアーがどのような背景を持った人間か説明しておくと,(1) 言語学が専門で,言語学に関係する様々な授業を大学で担当しており,(2) 大学院での専門は脳や神経細胞の集団にどのような情報の表示や計算が可能かなどの問題(と言語のかかわり)であり,したがってこの本で採り上げられている遺伝子や DNA, 進化生物学や人類の進化などの話題についてはあらかじめ知識があり,(3) 校正にかかわる仕事の経験が数年あり,その際専門的に訓練を受けたことがある.
1) 本の内容について
かなり新しい知見がふんだんに盛り込まれており,また論証の方向は多岐にわたっていて,人類の出アフリカ以来の足取りが丹念に追跡されている.とりわけ,DNA からの証拠と地質学的・考古学的証拠を緻密に突き合わせることによって出アフリカの年代・ルートを特定するくだりについては非常に説得力がある.ただし,人類多地域進化説を否定するためにかなりのページを割いて執拗なほどの議論を行っている部分については,この妄説がヨーロッパ人優位の人種差別観と抜き難く結びついており,全ての科学的な証拠が多地域進化説を否定しているにもかかわらずしぶとく生き残っているという現状が日本ではなかなか理解しにくいため,違和感を感じる読者がいるかもしれない(が,今述べた理由で非常に重要な議論であり,本書の価値はこの議論によってさらに高まっている).ハプログループに愛称をつけたのも(実は最初はくだらなく思えたが)よいアイデアであり,理解の助けになっている.
2) 訳について
訳文にありがちな生硬な文体ではあるものの,悪文というほどではなく,原著者の緻密な論証を比較的正確に追いかけてゆける文章である.ただし,読者がこのような翻訳特有の文体に慣れているかどうか,書かれている内容についてある程度予備知識があるかどうかによって読みやすさは大きく変わってくるだろうし,少なくともこなれた名文とまでは言えない.また,他のレビュアーの方も指摘しているように,ひょっとしたら誤訳ではないかと疑わせる部分も(わずかにではあるが)存在する.私にとっては読むのが困難になるような障害ではなかったが,何ぶん大著なので,気になる人はあらかじめ本屋などで実物を手に取って確かめてみたほうがよいかもしれない.
3) その他
原著にあった参考文献一覧を割愛したのは許し難い暴挙である.このため本書の議論のもとになっている論文などを直接参照するのは不可能または困難であり,原著の学術的な価値はこの訳書ではぶち壊しになっている.科学にとっては検証可能性が最も重要であり,結論が読者にとって心地よいかどうかではなく,結論に至る過程が客観的な証拠によって論理的に組み立てられているかどうかが議論の科学的な価値を大きく左右する.証拠の客観性を担保するためには個々の証拠が必要に応じて検証できる形で提出されていることが必要であり,原著はこの科学にとって基本的な手続きを(当然ながら)踏まえていたのだが,本訳書ではその部分がすっぱり抜け落ちてしまっている.より一般向けにしようという考えからなのかもしれないが,出版社の科学に対する全くの無理解の表れであり,もしそうではなく,一般の読者には科学的な手続きなどはどうでもいいだろうという考えから行われたとすれば,これほど読者をバカにした行為はない.なお,原著者による注も省かれている.