「イヌはどこまでネコか?」「イルカはどこまで動物か?」などと問う人はふつういないのに、「人間はどこまで動物か」と問うのは、あまり不自然とは思われていないらしい。仲間同士の呑気な雑談の種にする人もいれば、新聞のコラム子が気軽に取り上げて、一口話に仕立てることもある。時には、高名なセンセイが本気で珍説をご披露になることさえある。
しかし、この問いにおける「人間」を「ヒト」におきかえれば、同語反復の無意味な問いであることが分かる。「人間はどこまでも動物である」と答えるほかはないからだ。つまり、問いの立て方が間違っているのだ。なぜこの不毛な問い方がなされるのか?
著者は長年にわたりさまざまの動物たちを観察し、それぞれの種のユニークな生態に驚き、感動し、彼らが子孫を確保して生命の存続を図るために、環境条件に適応するどのような工夫を凝らしているかを克明に記述してきた。そしてこの地上の種の多様性と共存関係に、人知をはるかにこえる精妙な摂理がはたらいていることに、ますます強い確信を抱くようになったと言う。そして先の問いの「どこまで?」という問いの立て方に問題があると警告する。
「『どこまで?』というとき、スケール(尺度)は一本しかない。一本しかないスケールの上にいろいろなものを並べて、それぞれがどこまで到達しているか?という発想に問題があるのだ。」しばしばそれは「知能」と「知能の発達度に応じて習得された機能」を測るスケールであるにすぎない。「そこには常に一本のスケールの上での到達度を問題にしようとする近代の発想の呪縛があるようにしか思えない。」(pp. 129-30)
生物の種の多様性とユニークさにこそ、この地球上の「生命の奇跡」があるとすれば、それを単一のスケールで測るほどおろかな試みはないだろう。それぞれの「種」のユニークさ、他の「種」との違いは、生命の営み方の「ベクトル(方向)ないしパターンの違い」にあると見るのが妥当であろうと言う。
「学力」の低下が起こると、「学力」向上のための提言と施策が、教育問題の専門家や行政関係者によって論議され実行され、効果が上がらなければ、また新たな提言と施策......ここにも価値観の多様な社会に対応するためにと称して、実は「単一のスケール」によって子どもたちに不毛な方向づけを与える一例がある、嗚呼!